Beautiful World(3)

2020/10/05

10_Sample

 ゼロが目を開けたとき、車の窓からはポートレイル市の街並みが高架の車両レーンから見下ろせた。三月の曇り空の下にある街は、雲の隙間から覗き込む陽光に照らされて、白く輝いていた。
 道は緩やかに下りつつあった。頭をガラスにもたれかけさせて前方を見ると、円柱の建物が街並みの中から突き抜けて、灯台のように堂々と構えていた。このデンバー=ランバー島にそびえる、権威をまとった塔。ゼロはその建物が中央会議所と呼ばれていることを知っていた。
 タワーの上部を、立体映像がくるくると回っている。ゼロからはその内容までは見えなかったのだが、実際にはこう書いてあった。
「AA四十一年末の異分子登録庁への更新申請は、今月三月三十一日末迄です」

 車はレーンを降りた。あの白い灯台は建物に隠れて見えなくなり、地上の広い通りを走る。ポートレイル市の中央区には、島を牽引する大企業が並んでいる。
 ゼロは手の中にあった手帳型のデバイスに視線を落とした。訓練施設で何度も聞かされていた教訓が、彼のイヤホンに流れていた。滑らかな機械音声がゼロに言う。
「異分子捜査官の基本。異分子は自らの能力を最大限に発揮し、普通分子たちの職務を支え、時には盾となり剣となること」。音声は淀みなく続いていたが、彼はぼんやりと自分の首元に手を伸ばした。細いチェーンに通された小さなプレートには番号が刻まれている。それを指先でなぞり、ゆっくりとまばたきをした。静かに祈るかのように。
 しばらくして彼はイヤホンを外し、デバイスから流れる教習の動画も止めた。

 大通りを途中で右に曲がり、静かな通りに入った。「警察局」と書かれた看板の奥の関係者用駐車場の門は閉まっていた。車は門の前で停止し、守衛が門の方から歩いてやってきた。窓が開き、守衛が身分証の提示を求め、ゼロはデバイスを渡した。守衛がカードリーダー式のスキャナーに差し込むと、アナウンスが流れた。
「刑事部特別捜査課第二班所属、A級異分子、ゼロ。認証しました」
 門が開き、守衛はデバイスをゼロに返した。窓は再び閉じ、車はゆっくりとエントランス前に移動した。
 若い男が二人、迎えに立っていた。自分のすぐ横にあるドアのロックが解除される音を聞き、ゼロは扉を開けた。外に出ると、小さく爪先で立ち、体を伸ばした。どのくらい座ったままだったのだろう。首を伸ばし、薄いグレーの建物を見上げる。
「長旅、ご苦労様です」
 迎えに来ていたうちの一人が穏やかに言う。白衣を羽織り、メガネをかけていた。ゼロは自分で車の後方から鞄を出す。男はゼロが何も言わなかったので、隣で立っていたもう一人に、困ったような視線を投げかけた。その男が誰なのかは、ゼロも知っていた。耳の真ん中ほどまで伸びた金髪、鋭い青い瞳。資料で見た顔だ。
 警察省刑事部特別捜査課第二班班長。それが男の肩書きだ。男は、口を真一文字に結び、じっとゼロのことを見ていた。ゼロはトランクルームを閉め、二人の前に立つ。彼の乗っていた車は、そのまま向きを変えて引き返していった。
「特別捜査課のジェスターだ」
 彼はそう言うと、手を差し出した。ゼロは、その手を見下ろした。ジェスターの隣にいた白衣の男が、こっそりとゼロに言った。
「握手ってやつだよ」
 すると、ゼロは彼の手元を見たまま、無言で手を取った。二人の間には愛想の良い笑みもなく、軽い握手を交わした。
「こっちは課付きの医務官のイガラシ」
「よろしく」
 イガラシと紹介された方は、にこにことしながら、ゼロと握手を交わす。この男のことをゼロが知らなかったのは、彼が配属された班の一員ではないからだろう。
「早速で悪いが、急遽現場に向かうことになった。ついてきてもらえるか」
「はい」
 ゼロは頷いた。
「荷物は僕が預かっておくよ。君の社員寮の部屋も、もう準備できているから、そっちに預けておけばいいかな?」
 イガラシが彼の鞄を受け取った。ゼロは黙って頷いた。
「じゃ、いってらっしゃい」
 イガラシが言った。ゼロはちらりと振り返ったが、何も言わずにジェスターに続いた。
 ジェスターは車に乗ると、デバイスを渡すように言った。ゼロは言われた通りにデバイスを渡すと、彼はポケットから薄いカード型のメモリをかざし、彼に返した。
「俺と他の捜査官の連絡先だ」
 ジェスターは車を走り出させた。門は自動で開いた。
「班の資料は読んできたか?」
「はい」
 ゼロは正面に向けた顔を動かさずに答える。自分が配属される課のことは、訓練プログラムが全て終わった後に、聞かされていた。
 特別捜査課。主に異分子に関する刑事事件を担当とする。デンバー=ランバーの中心地であるポートレイルにのみ存在し、また、島の中でも異分子がA級と言われる階級に就くことができる、数少ない場所だ。課の下には班が設けられていて、各班に所属する異分子は概ね一、二名というのが暗黙の了解であるが、ジェスターが率いる第二班はゼロで三人目となる。
「一時間前に通報があった。西三区五番街のアパートで、異分子が死んでいると、アパートの管理会社からの連絡があった。他の捜査官と鑑識らが先に向かっている」
「刑事課は、来ないんですか」
 訓練施設で聞いたこととは異なる情報だと、ゼロは尋ねた。
「あぁ、座学ではそう習うだろう。初動は原則刑事課、そこから異分子が主に関係している事件なら、うちに事件を引き継がせるってな。実際は、異分子が関わっていると判断されれば、刑事課は通さずにそのままこっちに降りてくることも多い。今回は、アパートの住民が異分子であることは通報の時点でわかっていたから、現場の対応も俺たちに回されたわけだ」
 ジェスターは苦い顔をして説明した。建前上は、人員の節約と言われているが、実際は異分子の事件なぞに刑事課は関わりたくないというのが本音だ。
「他に聞いておきたいことがあれば、今のうちに聞いてくれ」
 ゼロはわかりました、と答えた。だが、先の質問以外では特に何も思い浮かばなかったのか、車の時計に視線を移した。時刻は十一時を超えていた。

 二人が乗っている車は、西三区、と掲げられた青い立体映像の下をくぐった。ゼロは窓の外の風景を目で追った。工場で生産された物品を保管している巨大なコンテナが、道沿いのフェンスの向こう側に並べられている。
「他の区には行ったのか?」
 何気ない調子でジェスターが尋ねる。
「いえ。訓練施設がある南四区以外には。ですが、知識はあります。西区は異分子収容施設も多く、併設された工場で働くBおよびC級の異分子が多く暮らしています。今回被害に遭った異分子も、そうした異分子であると、考えられますが」
「あぁ、そうかもな」
 ジェスターは小さなため息とともにそう言った。コンテナを所有している企業の敷地が途絶えると、スーパーマーケットが建っていた。その奥の細い路地を曲がると、二階建ての古いアパートがあった。ジェスターは車を停めた。アパートの前には、人が数人集まっていた。平日の昼間ということもあり、野次馬は少ない。ジェスターは車を降りて、辺りを見渡した。老女が一人、制服姿の警察官と話しているのが視界に入った。通報を受けてすぐに駆けつけた近所の警官だろう。話を聞いている、というよりは相手の気持ちをなだめさせようとしていた。
「彼も連れてきたのね」
 黒いワンピースを着た女が近付いてくる。彼女も特別捜査課の一人だ。ゼロは顔を見てすぐに誰だかわかった。長い銀髪を、三つ編みで一本にまとめている。とても落ち着いた態度だった。
「あぁ。一人で執務室に待たせるのも悪いだろう。ゼロ、彼女はカヨウ、副班長だ」
「よろしく。カヨウ・コンコーネよ」
 彼女の口調は柔らかいものの、それ以上の挨拶は重ねず、二人に向かって言った。
「殺害されていたのは、部屋の住民のジョー・バーティ。近くの倉庫会社で従業員の監督員をしている。出勤時間になっても連絡が取れなかったので、勤務先の社員がアパートの管理会社と大家に連絡。連絡を受けた管理会社の社員が、彼の部屋を開けたところ、殺害されているのが見つかった。ユリアンとノーヴェンバは、部屋にいる住民たちの話を聞いている」
「大家の方は?」
 警官と何やら話し込んでいる方を見ると、カヨウは肩をすくめた。
「まだゆっくり話ができる状態ではなさそうよ。先に中を見てきたら?」
「そうする。対応助かった。ゼロ、どうする? カヨウと待っているか?」
 ゼロはいえ、と言った。すると、ジェスターはもう一度確かめるように尋ねた。
「本当にいいんだな?」
「わかっています。大丈夫です」
 ゼロは感情のこもっていない声で言う。それならついてくるようにと、ジェスターは先を歩いた。エントランスから、うす汚れた赤茶色のレンガ風の廊下を歩く。バーティの部屋は、一階の一番奥にあった。扉の近くでは、鑑識たちが念入りに指紋の採取や、あたりの床や地面に何かしらの形跡が残っていないかを調べている。
「中はほとんど終わっています」
 鑑識の一人がそう声をかけた。
「助かる」
 ジェスターは開けたままのドアを通る。入った瞬間、そこがどんな場所なのかはわかっているはずなのにも関わらず、唐突に嫌な予感が彼に襲いかかってくるのを感じていた。
 玄関を入ってすぐ右手には小さなキッチンがあり、廊下の先の横開きの黄色の扉も開け放たれていた。その先の部屋の光景は、玄関から足を踏み入れればすぐに見え、ジェスターは思わず顔をしかめた。

 ダイニングテーブルの上に、シートがかけられていた。その下には、固まった血が広がっている。ジェスターがそっと近付いてシートを取ると、ジョー・バーティの姿はあった。
 長身の、若い男だった。茶色の髪は乱れ、白目を剥いたまま、首はテーブルからだらんと垂れていた。淡いブルーのシャツを着ていた。襟元が開いていて、左鎖骨下には、彼が異分子であることを表すバーコードが刻まれていた。腕や足はテーブルには乗り切らずに床に向かって伸びている。
 下腹部にかけて血がこびりついていた。その下には、肉をえぐった跡が生々しく残っていた。ジェスターは再びシートをかけ、部屋を見回した。
 テーブルから離れた場所に椅子が二つ並んでおり、壁際にはベッドが一つと、年代物のチェストが置いてある。反対側の壁際には、ハンガーに濃紺の作業服がかかったままだった。
「何か気になることが声をかけてくれ」
 ゼロは頷いて、ぐるりと部屋の中を見渡した。チェストの引き出しはいくつか開いていて、血痕があった。ジェスターもそれに注目したのか、引き出しの中を覗き込んだ。一番上の小さな引き出しには、文具が入っていて、その隣の引き出しには、書類が重なっていた。書類の上にも血痕が付いていた。ゼロは踵を返すとバスルームの方を覗き込んだ。ユニットバスの洗面台には、コップの中に歯ブラシが二つ立てかけられている。そのすぐ近くには、髭剃りや櫛、整髪剤などが適当に置いてあった。ゼロは覗き込むようにして櫛に絡まっている毛髪を見つめた。長い髪だった。
「何かあったか」
 ゼロの背中に、ジェスターは声をかける。
「いえ。ただ、誰か、出入りしている人はいたみたいです」
 彼は歯ブラシと櫛をそれぞれ指さした。
「そうみたいだな」
 ジェスターは頷き、一度部屋を出ようと言った。玄関横に、ジェスターの顔見知りの鑑識が立っていて、彼らを待っていた。
「中は見たか?」
「あぁ、ひどいな。遺留品の中に、財布やデバイスはあったか?」
「財布やクレジットカードは見つかっている。だが、通信機器に関するものは、何も出て来ていない」
「そうか、ありがとう」
 鑑識はふと、ゼロの方を見た。
「新しいメンバーか?」
「そうだ。ゼロ、こっちは鑑識のフィラデルフィア。特別捜査課とは、まぁ、腐れ縁だ」
「その通り。よろしく、ゼロ」
 フィラデルフィアが言い、ゼロもはい、と会釈をした。すぐに他の鑑識に呼ばれた彼は、適当に挨拶をすると、呼ばれた方へと歩いて行った。

二人も外に出ようと廊下を歩いていると、上から声をかけられた。
「ジェスター、それと……君がゼロか」
 アパートの上の階から、二人組の男が降りて来た。一人はチェック柄のジャケットを着た、人懐こそうな男で、ジェスターに声をかけたのは縁のないメガネをかけた、生真面目そうな男だった。
「紹介が多くて大変だな。一応だが、こっちの真面目そうなのがユリアン、調子者のほうがノーヴェンバだ」
 すでに班員の顔と名前は把握していたが、ジェスターはそれでもゼロにそう伝えた。
「初日から大変だね。よろしく、ゼロ」
 ノーヴェンバは彼の手を取ると、大きく振った。ユリアンも軽く彼に挨拶をすると、ジェスターに説明した。
「このアパートに住んでいるのは、上の階に四部屋、下の階に三部屋。下の階の一つには、大家が住んでいる。今話を聞けたのは上の二部屋、あとは外出している」
「わかった、詳しい話は、戻ってから聞く。俺たちは大家が落ち着いて、話が聞けそうだったら、それから戻る」
 すると、ジェスターのデバイスが鳴った。カヨウからだった。
「聞こえていたか?」
「えぇ。さっき、検察たちにも連絡が取れたわ。検察に遺体を届けてくるけれど」
「わかった。そうしてくれ」
 通話はすぐに終わり、ユリアンとノーヴェンバは自分たちの車に戻った。ジェスターたちが到着した頃からずっと警官と話していた大家は、二人が近付いてくると顔を上げた。
 年齢は六十代ほどで、部屋着姿のまま自分の身を守るように両腕を組んでいた。彼女のすぐ隣には、ジャケットを着た男が困惑した顔を浮かべている。男の首にはネックストラップがかかっていた。アパートの管理会社の若い社員で、バーティの発見者だ。
「どうも、特別捜査課のジェスターです。混乱しているかとは思いますが、少しお話を伺うことはできますか?」
 大家の方はまだ混乱しているとカヨウは言っていたが、落ち着いて来たのか、唾を飲み込んでから振り絞るように「わかりました」と答えた。管理会社の職員の方は、だいぶ青ざめた顔で頷いた。交番勤務の警官は、ジェスターの方をちらと、見やる。彼が頷くと、警官はそっとその場から立ち去った。
「発見されたときの状況を、教えてもらえますか」
 それには、管理会社の男が答えた。
「住民の方の勤め先から、うちに連絡が来たんです。連絡も取れないから、自宅を確認してほしいって。大家さんにもその後連絡したら、同じような連絡が来ていたと。それで、大家さんが先に部屋を訪ねることにしたんです。でも、返事がないということだったので、私もマスターキーを持って向かいました」
「だいたいでもいいので、時間はわかりますか?」
「えっと……電話があったのが朝の……九時ごろだったと思います。それで、大家さんに連絡して、私がマスターキーを持って会社を出たのが、九時半過ぎたころだったかと」
「鍵はかかったままだったんですか?」
「はい、どこか具合でも悪いのかと思って、管理会社の方に開けてもらうことにしたんです」
 大家がそう答えた。
「鍵を開けて、私が部屋に入りました。そうしたら……テーブルに……」
 管理会社の職員は言いかけて思い出してしまったのか、口を閉ざした。ジェスターは、それ以上は言わなくともいいと、そっと言った。
「あなたは、部屋には入っていないんですね」
 ジェスターは大家に向かって尋ねた。
「はい……慌ててこちらの方が出て来て、警察を、と仰ったので……電話をかけたら、住民は異分子かと聞かれたので、そうです、と答えました」
 彼女が遺体を見ていなくてよかった、とジェスターは思った。
「被害者の方は、他の住民の方と、何かトラブルなどはありましたか?」
「いえ、そういったことは、聞いていません」
 ゼロは隣で話を聞きながら、大家や管理会社の職員の話を注意深く見ていた。まばたきのタイミング、質問を聞いてから答えるまでにかかった時間もだ。動揺はしているものの、何か嘘をついているといった反応は見られなかった。ゼロは続いてジェスターの方にも意識を向けていた。時折丁寧に相槌を打ち、慎重に言葉を選んでいた。
「彼の部屋に、同居人は?」
「あぁ、それなら知っています。ジェンスという若い女性が、よく来ていました。同居ではなかったんですけれど」
「最後に彼女が訪ねてきたのは、いつごろか知っていますか」
「先週来たと思います。でも……あの、別に喧嘩をしているとか、そういったことはありませんでした。とても二人は、仲が良かったです。婚約もしていたと思います」
 大家は彼女が疑われているのかと思ったのか、心配そうに言った。ジェスターは彼女の意図を汲み取り、優しく言った。
「状況を整理したいだけです、ありがとうございます。一度我々も引き上げます。何か気になることがあれば、いつでも連絡してください」
 ジェスターは二人に特別捜査課への連絡先を伝えると、交番勤務の警官に二人のことを任せ、自分たちも車に戻ることにした。
「大丈夫か」
 ゼロはきょとんとした顔で、「えぇ」と頷いた。なぜ、そんなことを聞いてくるのだろう、という表情をしていた。
「酷い現場だったな」
「僕なら、大丈夫です」
 そうかい、とジェスターは口をきゅっと結んでから、車を動かした。少し走ったところで、ラジオを付けてくれとゼロに頼んだ。言われた通りにラジオの周波数を合わせ、ニュースに耳を傾けた。天気予報の後、すぐにコマーシャルが流れた。「人材派遣なら、フェローズにお任せ」と、陽気な歌声は車内には不釣り合いだった。