「……は」
少年は声のした左側を振り返る。視界の隅に、人影がある。長い髪、女の子だろうか。
死んでる? そんな馬鹿みたいな話、あるわけがない。これは悪い冗談だ、と言い聞かせてみるが、声は明らかに人が立っていられる場所にはない。少年は街並みを呆然と見渡した。現実にいるはずなのに、突然夢に落ちたみたいだ。
「ねぇ、こっちおいでよ」
声は再び言う。
「戻れない」
「嘘。穴通ってこっちくればいいじゃない。それとも、あたしがそっちに行ったほうがいい?」
嫌だ、ともう一度言おうとした。本当はそう叫びたがったが、ためらった。眼下のコンクリートを見下ろした。つま先のすぐ先にある光景。きっと、あそこに体を打ち付けたら、痛いのだろう。そんなことをふと思い出して、踵に力が入った。
「ねぇ」
「うわっ」
少女が自分の顔を覗き込んでいた。長い黒髪がふわふわと漂い、夕陽に晒された白い肌は透き通ってオレンジの光が微かに写り込んでいる。肩を出した白のワンピースは夏らしいものの、彼女から発せられるその雰囲気は涼しげというよりは、冷たい雪のようだった。
そして、宙に浮いて立っている少女の姿に、少年はぎょっとする。どうやっても足場は自分のつま先が飛び出すほどの狭さで、彼女は風船のように身軽に夕陽の中を泳いでいる。
「見えてる?」
「……うん」
少年が頷くと少女はにっこりと笑った。霊感なんて持った覚えはない上に、オカルトな話は信じたことはなかった。呆然としていると、彼女は細い両手を広げて彼と空を阻むように立つ。
「ね、どうせ時間あるでしょう? 今すぐじゃなくたっていいじゃない。ちょっと聞いてくれるだけでいいの」
「無理」
もう一度断ると、少女はずい、と近付いてきた。
「ねぇってば! あたし、ずっと誰か来ないかなって待ってたんだから!」
「はぁ……」
こんなこと、自分じゃなくたっていいだろう。
もっといるだろう、正義感だとか人情に溢れた人間が。どうしようもなく救われない奴らを助ける……いや、助けないといけないと思っている人間が。
少年は苛々しながら、片足をフェンスの穴に通し、体を正面に向けたまま後ろに下がる。
髪の毛がささくれた金網に引っかからないように慎重に首をすくめて穴をくぐる。落としたままのペンチを踏みそうになる。
改めて見ると、開けた穴は小さかった。少女はフェンスをくぐるふりだけして、少年の前に手を後ろに組んで立つ。少年の方は居心地が悪そうにパーカーのポケットに両手を突っ込む。ズボンの尻ポケットの携帯がまた鳴る。
「見なくていいの?」
携帯のことを少女は言う。少年はその言葉を無視して、「なんだよ」と冷たく言い放つ。すると少女は表情を明るくさせた。
「あ、聞いてくれるのね!」
「内容による」
「んーとね、簡単よ。あたしね、自分の生きていた証拠が欲しいの」
少女は簡単でしょう、と軽い口調だ。少年はじとりと少女を見つめてから、首を横に振った。
「却下」
「えー! なんで!」
「俺に何の得があるんだよ」
「ないけど……でも、君くらいしか頼める人がいないの」
「そういう言葉、やめてくんない?」
少年は明らかに嫌気が差した、という表情で少女を睨む。だが、少女も引く気はないらしく、語気を強めた。
「しょうがないでしょ! あたしだってもっと、優しくて明るい人に頼みたいけれど、そんな人、ここには来てくれなかったんだから」
「悪かったな。なら諦めて」
「ねぇ〜〜〜〜〜〜」
「しつこい」
「協力してくれないなら、君のこと呪うよ? 取り憑いちゃうよ? いいの?」
「好きにすれば?」
どうせできないくせに。それに、さっきまで飛び降りようとしていた人間に、そんな脅し文句を言ったところで効果がないことくらい、わからないのだろうか。
ここが自分の最後の場所としてはうってつけだと思っていたが、どうやら外れだったみたいだ。少年はペンチと、その辺に置きっ放しだったリュックを拾い上げ、踵を返して扉に向かう。ひび割れた曇り硝子の付いた両開きの取っ手に、自分がぐるぐるに巻きつけていたロープを解こうと、リュックからハサミを取り出した。ロープは自分が巻きつけたときと何も変わっていない。宙を浮いていたことも、どこからともなく現れた彼女は、本当に「幽霊」なのだろうか。
「じゃあ、あなたの大事な人を呪っちゃうよ! いいの?」
これもきっとできやしないだろう。やれるものならやってみろ。
大切な人? 下手な脅しだ。
少年は投げやりに切ったロープをリュックにしまい、自分が屋上に侵入した形跡を無くし、彼女の話も聞き流していた。
「じゃあ……あたしもあなたのために何かしてあげるから! それでどう? 交換条件ってやつ!」
「幽霊に何ができるっていうんだよ」
呆れた少年はリュックを背負い直しながら振り返る。少女は彼が振り返ったことが嬉しいのか、ころりと表情を変えて笑う。
「わかんないけど……あ、多分すり抜けることとかは出来るから、ほら、えーっと……職員室に忍び込んで、テストの答え見てきてあげようか?」
「今夏休み」
「あぁ……そっか……えっと……透明人間に憧れたことはあったけれど、実際大したことはできないなぁ。だとしたら……」
「すり抜け、出来るの?」
少年の遮る言葉に、少女ははっと彼を見た。その目は、ただ悪戯をしてやろうと企んでいる程度のものではなかった。少女は得意げになったのか、地面からわずかに浮いたまますーっと滑るように少年を通り過ぎ、扉にぶつかっていく。彼女の体はゆっくりと扉へと溶けていき、そしてひび割れた窓の向こうから、顔を覗かせて手を上げる。再び少年の隣へと戻ると、「どう?」と首を傾げる。
「……本当に、何かしてくれるんだよな?」
「いいよ!」
「簡単に、言わないほうがいいよ。何されるかわかんないのに」
扉を開けると、今にも扉が外れそうな、ぎぃという音が不気味に響く。階段を下りていく少年の後に、少女はついていく。
「ね、それってオーケーってことでいいんだよね?」
「どうせついて来るんだろ」
携帯のライトで薄暗い階段を照らそうとすると、画面に通知が大量に来ていることが目についた。
「さっさと片付けて、さっさと成仏してくれないと、こっちだっていい迷惑だ」
でないと、一人であの場所に居られないからだ。
廃れた各階はゴミが散らばっている。警備員が見回りをしているとは言うが、掃除まではしていないのだろう、下のフロアに行けば行くほどまだ新しそうなゴミが散乱している。
湿った埃の臭いにしかめ面をしながら、少年は早足で出ていく。一階の裏口の扉をそっと開けて、誰もいないことを確認すると素早く出る。少女はその後をゆらゆらと、顔の位置が少年の目線に合わせる高さで浮かびながらついて来ている。一度少女は「あれ?」と首を傾げた。少年は振り返るが、少女はなんでもない、と答えた。
「ね、君名前は? そのくらいは聞いてもいいよね? いろいろ不便だもの」
「……サクマ」
「サクマ! サクマサクマサクマ………、うん、覚えた!」
少女、モモセは何度も呪文を唱えるように彼の名前を連呼した。
デパートの前は人通りの少ない道ではあるが、それでも何回かはすれ違う。しかし、誰もサクマのすぐ隣についているモモセを見る仕草とか、浮いている彼女に驚く気配もないので、サクマは自分以外に彼女が見えていないことを実感してきた。自分以外には見えていない人間……本当はあのとき、俺は飛び降りたのかもしれない。そして彼女と同じように死んだのかもしれない。そんなことを想像しながら、足は自然と自宅へと向かっていた。