サクマの自宅は廃ビルから歩いて二十分ほどの場所にある、2LDKのアパートだ。
エントランスの黒ずんだ白塗りの壁に触れないように階段を上がり、部屋の前で鍵を取り出す。廊下の排水溝には羽虫の死骸がいくつか落ちていて、モモセがそれを見て「げ」と顔をしかめていた。夏はこの類が多く、家を出るときには瀕死の蝉と対峙しなくてはならない日が頻繁にあった。
廊下に面した窓からは光が漏れていて、すでに母が帰宅していることがわかった。かすかに料理のにおいがする。魚でも焼いているのだろうか。扉を開けるとすぐに、「おかえり」という声と戸棚で食器ががちゃがちゃと鳴る音が聞こえ、俺はまだ生きてるんだな、と当たり前のことながら身にしみて感じていた。
「ただいま」
「お邪魔しますー」
モモセが閉まりかけていた扉にそのまま頭を突っ込む。扉を通り抜けると、勝手にサクマの前に出て部屋を覗き込んだ。ふと気になって彼女の足元へと視線を落とすと、幽霊と名乗る割には、両足の形がくっきりと見えていた。靴は履いていない。
サクマはスニーカーを適当に脱ぎ捨ててから、片足でそれなりに直して家に上がる。
上がってすぐに、キッチンに向かっている母の背中が目に入る。母がコンロを開けると、平たい皿によそっていく。やっぱり魚だ。
「なに突っ立ってるの。ほら、ご飯にするよ」
母が振り返る。サクマははっとして、気の抜けた返事をし、リュックを置きに部屋に入った。
モモセは人の周りをうろうろとしながら、なにが面白いのか「ほうほう」と呟いている。
何か不都合があるわけではないが、自分の部屋にもずけずけと入られるのはなんだか気分は良くない。その一方で、入るなと告げれば、自分の声を聞いた母が訝しむだろうと、サクマはモモセに何も言うことが出来なかった。
「わぁー、年頃の男の子の部屋、入るの初めてだ! 案外何も無いんだね」
学習机には学校の教科書や夏休みの宿題が積まれている。部屋にあるのはその机とベッドくらいだ。それだけで部屋は結構狭くなってしまう。椅子の背中にリュックを引っ掛けると、中に入れていたペンチやはさみなどは引き出しにしまい、ロープはゴミ箱の底の方にこっそりと入れた。ポケットに入れっぱなしの携帯を机に置くと、通知がさらに増えていて、赤いボタンに書かれた数字が二百にまで溜まっていた。どれも見るべきものではないのは、わかっている。
「携帯、全然見ないんだね」
モモセが覗き込む。サクマは口を開きかけたものの、大きな独り言になるだけだと、盛大にため息を吐いた。投げやりな態度で、ようやく放置できたはずの携帯を取り上げて、文字を打ち込む。メモ帳を開いた彼は、彼女につきつけた。「家では話しはしない」。
彼女は頰をぷくっと膨らませたものの、すぐに開き直ったのか「仕方ないね」と答えた。「あとあんまりうろつかない」。サクマは指を動かしてからもう一度彼女につきつけた。
「わかったよ。ご飯食べてくれば?」
モモセも眉根を寄せたのでサクマもそれ以上は止め、部屋の電気を消してから、手を洗った。錆びたフェンスを握りしめた手は、鉄のにおいがついていた。モモセはこちらに聞こえるくらい大きな声で、思っていたよりも退屈だと文句をこぼしていた。帰宅の途中にも誰も気付いた素ぶりは見せていなかったが、もしかしたら母には何か見えているのではないかと不安になった。だが母は気が付いておらず、皿をテーブルに並べ終わり、座って息子を待っている。
向かいに座ると、母は食べようと促した。白米と鮭と味噌汁、それとおひたし。鮭の皿には大量の大根おろしが添えられている。今日は比較的涼しく、冷房はそこまで働いていないようだ。テーブルの横に取り付けられたテレビでも、気温が八月の割に低いということをニュースが取り上げている。涼しいといっても今は夏真っ盛りであって、サクマが廃ビルで地道にペンチを片手に錆びたフェンスを切っていたときは、じっとりと汗をかいていた。
「大丈夫?」
ふいに、母がそんなことを彼に聞いた。
「へ? なに?」
味噌汁をすすっていた最中だったが、突然の質問にサクマも驚く。廃ビルに行ったことも、ましてやそこで自分がなにをしようとしていたのかも母は知らないはずだ。なのに、どこか心配そうにしている。何か、気付かれてしまったのだろうか。緊張のせいか、返事がぎこちなくなる。
正直なところ、母は何かと物事に疎いことがあると、息子の方は思っていた。だが、親というのはどうしてか、何か異変があると、気が付いて欲しくないときに限ってやけに鋭い。
「食欲、ない? やっぱりお肉にした方がよかったかな?」
母は、息子のなかなか食が進まない様子を心配しているようだ。サクマは気の抜けた声で大丈夫、と答えた。妙に安心していたので、その態度も自分で思っている以上に自然なものだった。
「よかった。あ、チャンネル変えていい?」
サクマが答える前に母はチャンネルを変えていた。
各地の暑さを伝えるニュースは途中で途切れ、金曜のこの時間帯に放送されているドキュメンタリーへと画面が切り替わる。
始まった。
サクマは自分の気分がふさぎ込む感じがした。ほんの少し前に、時間に戻してほしくなった。流れている番組は、病気や災害を乗り越えた人々と、それを助けたプロたちを毎回取り上げ、番組のゲストたちが時折涙を流しながら素晴らしいと褒め称える。今日は私財を投げ打ってまで、誰も知らないようなアフリカのどこかで医療を施している男の話だ。
彼ら自体はなにも悪くはないのだとサクマは自分自身に言い聞かせ、画面を見ないように箸をただただ進める。腹はあまり空いていなかったが、残せばまた心配されるのも面倒なので口の奥に詰め込む。
そう、このテレビの人たちはこれでお金を貰っている、それで生活をしている。紹介されている人たちもそう、どこか聞いたこともない最果ての国で貧しい人を助けている人も、自分が築き上げた富を困っている人のための基金につぎ込んだ資産家も、彼ら自体は讃えられる人間だ。彼らの困難も、その先にある幸福も、あれこれ自分が意見する権利なんてまるでない。
「あぁ、すごいなぁ、この人。ほら、見て見て、賞まで貰ったって。すごいねぇ、やっぱり……」
『人のために何かできるってことは素晴らしいのね』。
一体何度聞いただろうか。耳を塞いでも言いたいことがわかる。
「ごちそうさま」
綺麗に空になった皿を重ね合わせ、両手を合わせるとサクマはすぐさま食器を流しに置いた。
「あれ、テレビいいの? 今面白いところじゃない」
「うん。風呂入ったら、宿題やらなきゃいけないし」
「そっか」
風呂場に向かう途中、退屈そうにしているモモセが壁に寄りかかるようにして彼をじっと見つめてきた。
「なに」
小声でモモセに言うと、彼女は意外そうに目を見開いた。
「別に。退屈していただけ。話しないって言ってたじゃない」
「今ならテレビで聞こえない」
自分が叫んだりしない限りは、母はテレビから注意をそらすことはないだろう。時折、自分に言い聞かせるつもりなのか、大きな独り言を言う母の言葉にも、サクマは聞こえないふりをした。風呂に入る支度を続け、その周りをふわふわと浮いているモモセに冷たい視線をぶつけた。これ以上ついてくるな、という意味だ。モモセはくすっと笑った。
わかってるよ、そのくらい。と、彼女はにやっとした。からかわれたようで、サクマは口をへの字に歪めて、さっさと彼女から離れようとした。