死にたがりの黒山羊と亡霊の白山羊(1)

2020/10/25

10_Sample

 誰かのための人生だなんてまっぴらごめんだ。
 ぱちん、とペンチが錆びたフェンスを断ち切る。
 屈めばくぐれそうな穴が目の前にぽっかりと出来上がり、少年はふっと息を吐き出した。右手に持ったペンチはそのままするりと抜け落ちる。
 馬鹿馬鹿しいよな。少年は頭の片隅でそう思いながらも、戻る気はなかった。もう、ここまで来てしまったのだから。昼過ぎに到着したはずなのに、もう夕焼けが自分の目線にまで落っこちてきている。
 八月の夕焼けに、ここ最近続いた猛暑を少しでも軽くする、涼しげな風。影を伸ばした家々と、背の低い雑居ビルを見下ろすことができるこの場所は、十年ほど前まではこの街の中心になっていたデパートだった。少年がまさに立っている屋上には、小さいながらも「遊園地」が設けられていて、メリーゴーランドや百円玉を入れると動くパンダやライオンのカート、ローラスケートで遊べるコーナーがあった。
 少年も一度だけ、たった一度だけだがここに来て遊んだ記憶がある。もしかしたら何度か訪れているのかもしれないが、自分の記憶に存在しているのはこの一回だけだった。ワゴンで販売していたアイスクリームを買ってもらい、ライオンのカートに乗った、ぼんやりとした思い出。あのとき一緒にいたのは父親だった。父親の顔もとっくに忘れたが、彼のうっすらとした記憶の中では、メガネをかけていた。たくさんの親子連れがいて、父親はそれに困惑しながらはぐれないように手を引いていた。自分がカートに乗ってご満悦気分のときにはにこにこしながら後ろをついてきていた。
 そんなことを思い返しても、なつかしいとか、切ないだとかいう感情は湧いてこない。
 ましてや、名残惜しいとも。
 この屋上も、デパートが撤退してからはほとんどのものが撤去され、残っているのはビニールカバーをかけられたメリーゴーランドだけだ。無人になったこのビルも、今となっては誰も立ち入ることもなく、人々から忘れられている。時折ホームレスが住みつかないようにと警備員や地元のボランティアパトロールが立っているものの、金曜日の昼から夕方にかけては誰も来ない。
 俺もこのビルみたいに忘れられるんだろうな。誰にも乗ってもらえないライオンみたいに、回ることのないメリーゴーランドみたいに。
 少年はフェンスの穴をくぐり、ビルのほんのわずかな縁に足を乗せた。かかとの方に体重を預けて脆い金網によりかかった。風が先ほどよりも強くなっている。向かい風だ。
 捲っていたパーカーの袖を下ろし、ポケットに手を入れる。尻ポケットに入れたままの携帯が鳴ったものの、見ようとは思わなかった。どうせくだらない内容だろう。少年は夕日を眺めながら佇む。足が少しふらついて、ふと下を見下ろした。デパートに面した道路はこの街にしては幅も広いが、わざわざ廃墟ビルの近くなぞを通る人も無く、車と自転車が時折さっさと往来する程度だ。会社の帰宅時間にさしかかってきたのか、車が目立つ。
 そろそろだ。少年はポケットから手を出した。よりかからせていた上体を浮かせ、赤い空を見上げた。夜になってしまう前に、飛んだほうがいい。まだ、空が綺麗なうちに。
 目を閉じれば、一瞬だ。
 息をゆっくりと吸い込む。
 一瞬、時が止まったようだった。
「ジャンプするの?」
 その声に吸い寄せられるように、体が後ろに下がった。はっとして目を開けた。自分でもその反射的な動きに少年は驚いていた。背後から聞こえた声は、子供のものだった。屋上に続くドアは誰も入れないように戸口にロープを巻いて塞いでいるはずだ。
「だれ?」
 少年はフェンスに右手の指を絡め、空を仰ぎながら尋ねた。
「モモセ」
 と、背後からまた静かな声。幻聴だろうか。それにしてはやけにはっきりしている。それに、少年には聞いたこともない名前だった。
「名前はどうでもいい」
 できるだけ強がったように、彼は喉の奥から声を出した。
「だれって、聞いたじゃない」
「何か用?」
「ジャンプ、するの?」
 彼の質問には答えずに、声は再び少年に聞いた。少年はだんだん冷静を取り戻していた。
 しつこいな、と舌打ちをする。そんなに言うのならば、その証拠にいますぐ飛んでしまおうか。フェンスに絡めた指を解こうとすると、ねぇ、とさらに強い口調で繰り返され、少年は苛立った声でそうだよ、と答えた。
「そんなことしたら、死んじゃうよ?」
「わかってる」
 そのために来たのだから。止めようたって無駄だ。偽善で言っているならば尚更。しかし、声はくすくすと楽しそうに、笑った。
「一個だけ君にお願いしたいことがあるんだけれどね、どうせ死んじゃうのなら、一つくらい、いい?」
「嫌だ」
 少年はきっぱりと断った。こんなにはっきりとノーと言えるのは気分がいいものか。
「お願い。だって、ここに来てくれたの、あなたが初めてなんだもん」
「帰ってママにでもお願いしなよ」
「会えないよ……だって」
 モモセの声は少年のほうへとだんだんと近付いてくる。最初はなんとも思っていなかったが、なんだか背筋に寒気が走る。フェンスを掴んでいた手に力が入り、空を見上げていた視線は下がって、自分の背後をできるだけ見られないかと顔の向きを変える。何か冷たい空気が右側に通る。ささやき声が、耳元に小さく響く。
「だって、あたし、死んじゃっているもの」
 それは冷たい事実だったが、声色はひどく寂しく、柔らかかった。