私が彼を訪ねた時、その人がまさに彼なのだと、不思議にも一目でわかった。
すでに現役を引退したとはいえ、しっかりとした足取りでこちらに歩み寄って来た。目付きは険しいものの、そこに威圧だとか、そういった雰囲気はまるでなかった。彼は短く挨拶をすると、テラスの方を顎で示した。あちらで話をしようという提案だった。
人工島デンバー=ランバーが人工であることを忘れさせる風景の一つに、ここヴァッジサートのビーチも挙げられるだろう、と私はテラスに出て思った。小さなパラソル付きのビーチチェアや、敢えて剥げかけた塗装をかけたベンチには、入居者が陽の光をたっぷりと受けていた。彼は先客に挨拶をすると、私に、テラスの端にあるテーブルを勧めた。テーブルの中央にパラソルが広げられていて、そよそよと心地よい風が吹いていた。ビーチというものは普通、砂で出来ているというが、ヴァッジサートのビーチはプラスチックを加工した柔らかい素材なのだと聞いたことがある。
「ここいらは初めてきたのか?」
と、彼は尋ねた。よっぽど私が物珍しげにテラスの下を眺めていたからだろう。私は正直にはい、と答えた。
「あれ以外には特に何もないんだがな」
彼はそう言って微笑んだ。職員の方がテラスまで出てくると、アイスコーヒーの入ったグラスを二つ、私たちのテーブルに置いてくれた。私は礼を言って受け取る。職員は私に話しかけたそうにしていたものの、邪魔をしないようにか、愛想の良い会釈と共にすぐに室内に引っ込んだ。
オーシャンビューの別荘のような老人ホームにいる全ての人間は異分子だ。入居者だけではなく、職員も。異分子が集団で生活する場という意味ではまったく同じはずなのに、島のあちこちにある異分子の収容施設とここは、まるで別世界だった。ビーチチェアに腰掛けていた入居者が、私たちの方を向いて、にこっと微笑んだ。特に何を言われるわけでもなかった。私はその笑みに、どこかほっとした。ぎこちない笑みを返し、彼の方へと向き直った。
「早速、お話を伺ってもいいですか」
彼は構わないと頷いたが、ふと、戸惑ったようにも見えた。
「そもそも、どうして五十年も前のことを?」
私はその言葉をかけられることを予期していた。
そう、五十年も前のことだ。
「もちろん、あの出来事自体に大きな意味がありました。けれど、私の目的は、今救えるかもしれない人がいるということです。同じような苦しみに遭うかもしれない人を」
彼はじっと私の目を見ていた。まるで見透かされているみたいだった。彼は私の目を見て、納得したように首を何度か縦に動かした。私はすぐに録音機のスイッチを入れ、ペンを取った。
「世間からすれば五十年なんて、もうずいぶんと昔の……歴史のことだ。当時、施設のC級っていうのは管理番号しかなく、名前なんてもんはなかった。デンバー=ランバーにはいるが、存在は無いにも等しいもんだった」
それは今でも変わらない、と私は心の中で相槌を打った。変わったのは、呼称が番号からそれらしい物になったか否か。C級の異分子は、収容施設から出ることはない。彼らの存在は、島にとっては認められていないのも同然だ。
「俺も、物心ついたときから名無しだった」
「あなたはC級だったのですか」
私が驚いて聞き返すと、彼はそうだと、口の端を上げた。
「施設の外っていうものに、どうしても行ってみたかった。けれど、お前さんも知っている通り、C級は外に出られない。そんなとき、条件付きで外に出られることを施設の方から言ってきた。最初は人材派遣会社が人手不足解消のために、C級でも能力が高ければ使うっていう話だったんだ」
「それが傭兵であるということは、後から?」
「なんとなく察しはついていたさ。人材派遣会社なんてもんが、わざわざC級まで使おうっていうのは、そりゃ気分のいい仕事じゃないってことくらいはな。でも、それでも俺たちは外の世界を望んだ。武器を持ち、どうして争っているのかもわからない戦場のど真ん中に置かれ、銃を持たされた」
「どんな場所だったんですか?」
「この作り物の島よりもひどい有様だった。森は焼かれ、山は禿げ、並び立つ家は爆撃で屋根すら残っていない。誰も意図せずに無駄な壁と有刺鉄線ばかり作られ、どこも土埃で目が痛くてたまらなかった。それに、魚の腐ったにおいもな。俺が施設で見ていた外の資料っていうのは、もう随分と古いものなんだと思い知らされたよ」
彼は優しく私にそう教えてくれた。私はすでにそのことを過去の出来事として知っているが、当時の彼にとっては衝撃であっただろう。
世界各地では戦争と内乱が蔓延っていたけれども、この人工島だけは無関心を装い続け、結果的に多くの人の記憶の中にある外の世界の光景は、何年も更新されずにいたのだ。私が思わず顔をしかめると、彼は苦笑した。それでもまだ聞きたいか? というまなざしを向けられた気がした。私は話を続けてもらうことにした。
「あなた方が派遣されたのは、あなた方の能力が関係していた、ということも?」
「どうだかね。何人かはそうだったと言える。でも、同じ異分子のC級といっても、全員が全員、たいそうな力を持っているわけでもなかった。中にはB級同然の奴だっていたさ。かわいそうなやつもいたよ。ハートはどこをとっても普通の人間だった。それなのに、化物みたいな扱いをされて、これでようやく自由になれたと思ったら、襲撃に逃げ遅れて、そのまま銃であっけなく死んじまった。走ってこっちに向かって来ていたんだが、後ろから撃たれたんだ」
彼は淡々と語った。私は、彼の異分子としての力を何なのかは知っていたので、そこまでは驚くことはなかった。
「全部、覚えているんですね」
それでも、私はそう言いたかった。彼はしっかりと頷いた。
「あぁ、そうだとも。俺はなんだって覚えている。廃墟ん中で食ったレーションを作っている会社の名前だって言えるぞ。いや、言わない方がいい。あんなに不味いもんは食ったことがない。牛の糞みたいだ。今は高級サプリメントなんか売っているらしいがな。その方がいい」
彼はおどけて言ってみせた。彼なりに気を遣ってくれているのだろう。彼は話がそれたな、とコーヒーを一口飲んで、話に区切りをつけた。
「俺たちの隊を指揮していた男は、ラットという名前だった。年長で切れ者。顔もハンサムでな、名実ともに俺たちのリーダーだった。自分の力とその反動も完璧にコントロールしていた。今思えば、あいつはA級になるべき人間だった。……俺は隊の中でも年が一番小さくて、まぁ、弟だと思っているやつもいれば、息子みたいだと思っている奴もいたよ。俺は銃を握らされることはなかった。そうやってあいつらは俺を汚れ役からは外したかったんだな。俺は補給と記録係が任務だった。地形はどんな感じだとか、敵の装備どういった造りだとか、見たものを全部記録していた。
あの日は全員の様子がおかしかった。でもそれは、今回の作戦が終われば近くの街で休めると浮かれているんだと思っていた。そうであってほしいと、俺自身も思っていた。まともな食事と、清潔なシーツ。島の連中はごく普通に享受しているもんだ」
「もし、施設に戻れていたら、そうしていましたか?」
「いいや、どんなに飯がまずくても、俺はあの場所にいたことを後悔していない。あいつらとの間で俺は名前を得て、自分が何者なのかを考えることが許されて、自分が自分という人間であることを、知ることができた」
私はその答えを聞いて、悲しさと誇らしさと、それからそんな質問をしたことを少し恥じた。けれど、彼は穏やかな表情のままだった。テーブルの上で手を組み、そこに視線を落とした。
「俺たちの隊は、敵の基地の偵察任務に就いていた。ドローンよりも人の方がまだ見つけにくかったからな。ステルス機能付のドローンは高いっていうものあるが。
俺はラットと一緒にいて、急にあいつは昔話を始めた。自分が生まれてすぐに異分子だとわかって、施設に入れられたこととか、施設でした喧嘩のこととか、見た事のない両親を懐かしんでみた日のこととか、島に残っている恋人の話とかな。ありがちな話だろう? そういうことを話すやつは大抵死ぬっていうのが物語のセオリーだろう? そいつもセオリー通りになったんだ」
その先彼らに何があったのか、大体は知っていた。私は口を挟まずに、時折頷いた。
「俺たちが基地に着くとすぐに、軍の奴らにそれがばれてな。周囲の友軍たちがこぞって潰しにかかってきたんだ。自軍の応援を要請しても、全く反応はなかった。味方は、友軍が俺たちを狙っている間に、別の基地を襲撃していたわけだ。
俺はそこでようやく、俺たちが囮にされたことを悟ったわけなんだが、ラットたちは最初から知っていたんだ。目が覚めたその日、自分が死ぬことを知って、俺に笑いながら自分のことを話していた。街で飲むカクテルのことも、銃弾が飛んでこない寝室のことなんか頭になかったんだよ、最初から。俺以外の小隊の奴らは、どうにかして俺を逃そうとした。ラットは俺に、生き証人になることを望みやがった。会社の方はたまげただろうな、あの作戦のときに小隊は全員口封じするつもりだったんだから。だが、俺は生き延びた。血と煙の中、馬鹿みたいに這いずり回って、醜くても生き残ってやったのさ」
どこにでもある話だろう? と彼は自嘲気味に言った。
「このブラッド・フォール事件の後、あなた方を派遣した会社は解体されましたよね」
「結果的にはな。けれども、それは責任問題のためじゃない。あくまで自分たちの保身のために解体したにすぎない」
やはりか、と私は内心納得していた。結局あの事件は人の目に触れることは少なく、異分子を海外派兵することについての議論には至らなかった。今も、何のために戦っているのかもわからない戦場に、C級の異分子が派遣されている。社会の誰にも知られることもなく、彼らは刹那の自由を求め、戦場で死んでいく。
「お前さんのことを、少し聞いてもいいか?」
彼はふと、そう尋ねた。もちろん、と私は答えた。