「二一三八年三月二〇日、午後一一時四一分。安全地帯を確保したため、本日の記録を開始する。移動距離五〇キロメートル。道中の人類及びその他特筆すべき生物の反応なし。マスク型マネキンを二体確認したが、いずれも損傷激しく復旧困難。プレイヤーとのコンタクトは不可能と判断。ただし、マネキンのシリアルナンバーの記録は別途記録。……記録終了」
冷たい唇が言葉を紡ぐ。ドレスド型マネキンが見開いた瞳は青白い光を放ちながらレコードのように回転していた。単調な記録終了という言葉とともに瞳はだんだんと回転速速度を落とし、元ある位置でぴたりと止まる。
マネキンは首を動かして周囲を見渡した。コンクリートで塗り固められていたであろう道路はあちこちでひび割れており、至る所で緑がじわりじわりとかつての彼らの王国を取り戻しつつあった。その道をずっとまっすぐ辿っていたところに、どんよりとうなだれたような建物が佇んでいた。五階建ての長方形の体に嵌め込まれた窓ガラスはほとんどが割れており、両開きのエントランスは片側の扉がなく、ぎっしりと詰め込まれた廃棄物で溢れかえっている。傾いた看板を見るに、かつては高級ホテルだったようだ。
ドレスド型マネキンはもう動かないマイクロバスの中で腰掛けていた。ここはホテルの駐車場にでも使われていたのだろうか。他にもいくつか自家用車がそのままに打ち捨てられていて、錆にまみれている。マイクロバスもフロントガラスが外れていて、一番前のソファに腰掛けると埃がふわりと舞った。ホテルの入り口は廃棄物で埋め尽くされているので、休息を取るならばこちらの方が幾分か良いだろうと判断した結果だった。
マネキンは人間の姿を模して作られた。だが人間よりも頑丈に作られており、この汚染された大地を悠々と歩くことも可能だ。その中でもドレスド型と呼ばれるものは、精密な自律プログラムも組み込まれている。
そのマネキンはソファに腰掛け、頭を下げる。それは、居眠りをする青年の姿をしていた。丁寧にまつげを植え付けられた瞼を下ろすと、機体はスリープモードに切り替わり、メンテナンスが開始される。そうしている間に、霧がかった夕暮れ時の地表は静かに夜へと切り替わる。空は群青の上に灰色が被せられ、星を見上げる者がこの惑星から消えたのは、そう最近の話でもない。
それは、地表で人間たちの生命活動が困難に直面し始めたころからだった。マネキンたちにも、そのことは知識としてインプットされている、彼ら自身のはじまりにまつわる歴史である。己の営みによって荒廃した星の行く末を嘆いた人間のいくつかは、代替存在としてマネキンを作った。人々がこの星を去っていく一方、留まった者たちの生産や流通を担うことが、最初の目的だった。人間という生物は地表から姿を消していったものの、地球を支配しているのは人間であるという彼らの自惚れをしばらくは持続させることができた。プレイヤーとなる人間が地下かシェルターで遠隔から操作するマスク型マネキンは大量に生産された。そうしていくうちに労働力を補うための道具にすぎなかったものが、だんだんと愛玩用としても生産された。
だが、すぐに人間はそれにさえ限界を覚えた。そして、最後には地球を放棄し、新たに作った星に移り住んで行った。人々は溺れるのを恐れるようにと宇宙船で飛び去って行くと、プレイヤーを失った機体たちは廃棄物と同様に道やそこかしこに捨てられていくようになった。いまだに活動可能なマネキンは、自律型プログラムが組み込まれたドレスド型のマネキンのみである。
数時間後、メンテナンスが完了するとマネキンは目を開いた。遠い空の向こう側から、白い光が立ち上ろうとしている。どこにも行くこともできない、片側のタイヤが外れたマイクロバスからマネキンは降りる。
昨日よりも少し濃くなった薄灰色の粒子が飛んでいた。汚染物質が引き起こしている霧だ。マネキンはその眼球から霧の成分を分析する。危険度は一〇のうち六。人間ならば特殊なマスクをしていないと呼吸さえも自滅行為に繋がる。
マネキンは駐車場からまっすぐ歩いて、ホテルの前で立ち止まった。風に煽られて、残された片側の扉がぎいぎいと音を立てて揺れている。その扉から廃棄物の塊がいくつか風に転がされる。マネキンは屈んで、どれも同じ形をしている中から一つを拾い上げた。手のひらに収まるほどの、キューブ型に圧縮された廃棄物の塊だ。プラスチックと汚染土が主な成分で出来ている。人間たちが、最後のあがきとして作った遺物の一つだ。マネキンは口をぱかりと大きく開けて、ゆっくりと口の奥側へと廃棄物のキューブを入れた。咀嚼音が響き、取り込んだ廃棄物をエネルギーに変換するために機体はきぃと音を立てた。エネルギー補給率、六〇パーセント。ごくりと最後の一欠片を飲み込み、マネキンはもう一度建物を見上げてからは、もうここには用はないと判断し、歩き始める。
「二一三八年三月二一日、午前四時三七分。安全地帯から三〇メートル先にある建造物から廃棄物を摂取。内部は廃棄物に詰められているため、探索は困難。廃棄物の多くは圧縮型のものであり、二〇五二年マツゾエ社が製造した廃棄物圧縮機によるものと類似。建物の劣化は激しく、生体の侵入形跡なし。記録終了」
ホテルから歩き始めてから二時間。延々と続くひび割れたコンクリート舗装の道の真ん中を、一体のマネキンは進んでいた。時折小型の食料品店がぽつんと建っていた。かつてはコンビニエンスストアと呼ばれていたもので、人間やその他生体の存在が確認されやすい場所の一つと考えられていたが、どれもホテルと同様に廃棄物のキューブが詰め込まれて、足を踏み入れることもできない。キューブの山の上に、店を被せてしまったようだ。
奇妙だ、とマネキンはこれまでの記録を呼び起こしながら道の左右を見渡す。キューブが町中に溢れかえっている様相は、これまでいくつかあったものの、ここは建物の中だけに限られている。道に転がっている廃棄物は少ないし、エンジンさえつかないであろう車にだって席を空けたままにされている。
それからさらに歩き続けていると、フェンスで囲まれた建物があった。フェンスは錆びて歪んでいたものの、マネキンは回り込んで正門を探した。横開きのゲートはわずかに開いており、そこに取り付けられている看板はペンキが剥がれて文字は読み取れないものの、なんらかの工場ということがわかる。
マネキンはゲートの奥へと進む。警報も鳴る様子もない。内部は外側と変わらず、道路が敷かれており、それに沿ってコンクリートの建物が続いている。道なりに進んでいくと、敷地が開けた。そこにはドーム状の大きな建物が佇んでいた。周りには先程のようなコンクリートの建物はなく、ぽつんと孤立していた。マネキンはそのドームを見上げる。高さはさほどなく、屋根は元から取り付けられていないようだ。建物の右側に付けられた梯子とわずかな足場から内部を見下ろすことができるようだ。建物の左側にはドームの外側に向けて大きな蛇口が取り付けられており、歪にあちこち膨れ上がっている。そこからこぼれ落ちているのは、またしてもキューブ型に圧縮された廃棄物たちだった。マツゾエ社の廃棄物圧縮機であることは間違いない。マネキンの機体に内蔵されているメモリはそう判定した。建物の上部から廃棄物をたっぷり詰め込んで、下部にあるマシンが廃棄物をキューブに圧縮して蛇口から吐き出す仕組みだ。梯子とわずかな足場は、人間が見張り台に使っていたのだろう。圧縮機そのものも劣化が進んでおり、停止してから長い年月が経過したことが伺える。おそらく、ここにも目的のものは何も得られないだろう、とマネキンは引き返そうとしたそのとき、ドームの奥側でばたん、と扉が閉まる音がした。マネキンが首を傾げて数歩横に移動してみると、ドームの陰に隠れるように小屋があった。色褪せた緑色の、粗末な建物だった。物置か、あるいは一時的な休憩場所だったのか。
扉の音がしたのは、風に煽られた扉が今にも外れそうにぶらぶらと揺れているせいだった。マネキンは慎重な足取りで、小屋の中へと足を踏み入れる。入ってすぐの場所に足が一本折れた大きなテーブルには、埃を被った灰皿と黒く汚れたペンが投げ出されている。
テーブルを囲っていたはずの低い丸椅子はどれも酷い寝相のまま横たわっている。壁際に並んだロッカーは半端に開かれており、汚れのついたままの作業着が床に飛び出している。廃棄物と、汗が混じった臭いが漂っている。放置された衣服の残骸からそれが人間の臭いであることをマネキンは学習していたが、その持ち主の顔を見ることも叶うことはないだろう。マネキンは屈んで落ちた作業着を拾い上げると、胸元に縫い付けられた名前らしき文字を指先でなぞった。