応答アリ/僕は空の色を知らない

2022/10/29

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 俺のものではない夢を見ている。
 部屋の左側には窓があって、オレンジ色の柔らかい光が差し込んでいる。黄緑色の壁紙に、小さなテーブル。そのテーブルに向かい合うように置いてあるのは一枚の大きな鏡だ。俺は席についていて、鏡に自分の姿が映っている……と思い込んでいる。
 けれど、そこに映っているのはまったくの別人だ。オレンジ色の光に照らされた顔は悲しそうなのに、口元は笑みを作るように口角を上げている。肩まで伸びた髪を時折耳にかける仕草をするけれど、大体は手をテーブルの上で組んでいる。俺よりも少し年上に見える。けれど、知っている顔じゃない。
 声を聞いたことはない。俺たちはそうやって向かい合っている。いや、本当はそこに俺はいない。そこにいるのはどこで会ったのかもわからない女だけだ。鏡に映った自分を見て、ただじっと座っている彼女を夢で見ている。
 早く醒めてしまいたいとぼんやりと思っていると、遠くの方でいつものアラーム音が聞こえて俺はほっとする。これは夢。あるいは。
「八時五分。もう、朝食ぎりぎりの時間ですよ」
 けたたましいアラーム音で俺は目を開ける。視界に入るのは白い天井だ。ベッドのすぐ隣で、マザーが俺の顔を覗き込んでいる。ホイールの足を持つ白い機体の『母』がその日の始まりにするのが、俺たち一人一人に朝の挨拶をすること。俺はまだぼんやりとしていてマザーに適当に返事をしてのそりと起き上がった。寝癖があちこちにあるんだろうなっていうのがふわふわと動いた毛の感覚でわかる。
「みんな起きてますよ」
「ギンガはまだ寝てるでしょ」
 一番の気分屋のことを引き合いに出してみたけれど、「さっき起こしました」と言い返されてしまった。仕方なく俺はベッドから出て、壁にかけてあるシャツとズボンに着替える。
 部屋を見渡して、なんだか変な気分になる。まるで、ここにいるのは変、と思うような。それで、あぁそうかと気が付く。この部屋には窓がないし、壁は黄緑じゃない。そんなことを思うのは初めてじゃない。
「また夢を見ましたか」
 マザーは優しく聞いてきた。俺は頷いて、寝間着をベッドに放った。マザーはボディから伸びた細いアンテナみたいなアームでそれらを器用に拾い上げると、ボディの内部にある収納ボックスに入れていく。
「フズに報告しますか」
「ううん。別に、大したことじゃないから」
 着替えと簡単な身支度を終わらせてから、せめて壁の色でも変えようかなと思って壁に取り付けられているパネルを操作した。草花がたくさん咲いている映像だったり、水中で魚が泳ぎまわっている映像だとかに切り替えられる。あぁそれに、絵本に出てくるようなクッキーとケーキで出来たような壁紙とか。他の『兄弟』たちの部屋も気分によって変えられている。俺は大抵白か、適当な無地の色。今日はオレンジにしよう。柔らかくて、暖かそうなオレンジ。
「良い色ですね」
 マザーが切り替わった部屋の色を見て言い、俺を朝食へとやんわりと促した。
 食堂にはもう『兄弟』たちが一つのテーブルを囲んでいた。ここには大きな窓があってフィフスの中心街までもが見下ろせる。街の光は一日に合わせてライトアップされていて、今は白い光が差し込んでいる。人間が地球でいたときの名残を、今も引き継いでいるってわけだ。俺たちはそれを朝だと認識している。
「あ、ねぼすけ」
 『兄弟』の一人が俺を見て笑った。ギンガ。今日の髪の色は金色に灰色のメッシュ。この『兄』はしょっちゅう会うたびに、髪の色を変えてくる。たまに一日のうちに何度も変えるから、目印にすると結構面倒。その向かいに座って「おはよ」と短く挨拶してきたのは、『姉』のツキミ。遅れて奥からカフェオレを持ってきたのは、『妹』のアマノ。
「おはよ」
 俺は『兄弟』たちに挨拶をして、空いている席に座った。アマノが俺の分までカフェオレを持ってきてくれたので、礼を言って受け取った。
「九時三十分になったら、フズの部屋に行くように」
 マザーの言葉に俺たちはそれぞれ返事をした。部屋の奥にあるカウンターから食事を取ってくる気になれなくて、アマノがくれたカフェオレを飲む。
「お腹すかないの?」
 ツキミが頬杖をついて聞いてきた。「んー」と返事をすると、まだ寝ぼけているんじゃないかとギンガがにやにやした。自分の手元にあった食べかけのパンケーキを切って、フォークで俺の口元に持ってくる。からかっているつもりなんだろうなと俺はぱくりと食べた。
「まだ寝ぼけてるの」
 と、アマノが聞く。
「夢見ると寝た気がしなくて」
「あの変な夢ってやつ?」
 そう、と俺はツキミに頷いた。ギンガは俺の話をあんまり聞く気はないのか、今度はブロッコリーをフォークに刺して向けてくる。『兄』の方は見ないで、口だけ動かした。視界の端で今度は何にしようか選んでいるようだったから、パンケーキの残りを指で示した。
「また検査してもらった方がいいんじゃない?」
 アマノは心配そうに言うけれど、俺は首を横に振った。夢はただの夢なんだから。
「本当に、眠いだけだから、平気」
「コーヒー淹れてこようか?」
 そう言って席を立とうとするアマノを、いいよ、と止めてからお礼を言った。
「カフェオレ飲みたかったから」
「美味しい?」
「うん、マザーが作ったのよりおいしい」
 正直に言うと、『妹』は満面の笑みを浮かべて、ツキミもそれにつられたように目を細めていた。
「ギンガ、もういいって。自分で食えよ」
「小鳥みたいで面白かったのに」
「餌付けどうも」
「ねぇ、次寝ぼけてたらあたしがやってもいい?」
「おう、いいぜ」
 俺ではなくてギンガが調子良く言った。なんで二人が言うんだよ、と首を横に振る。そんなくだらないことを話してばかりいれば、あっという間に朝食の時間も終わりだ。時計を見ていたアマノがそろそろ行こうと言って、食堂を後にした。

 俺たち『兄弟』は同じ部屋で生まれた。『兄弟』といっても年齢は全員同じで、少しだけ生まれてくる時期が違っただけのこと。兄とか姉だとかの順序はあるけれど、それを気に入って使っているのは特にギンガとツキミで、二人はどこかの資料で見た年下に面倒を見るという行為を人形遊びの延長で面白がっている節があるのを、『弟』と『妹』のカテゴリに収められた俺とアマノはどことなく気付いている。『兄弟』は大抵、血縁関係がある者同士を指すらしいが、俺たちは違う。いや、もしかしたらそうなのかもしれないけれど、俺たちはどこかの誰かの遺伝子をもらって、培養器の中で生まれた。
 フズは俺たちが培養液に浸っていたときの頃から知っている。この施設の研究員の一人で、俺たちの世話役。マザーを『母』と呼ぶのなら、フズは『父』になるのかもしれない。灰色の混ざった髪に、くたびれた紺のセーターを着ている。白衣はくしゃくしゃになって椅子の背もたれにかけたままだ。ツキミがそれを見てげんなりした顔を浮かべた。着ているものにこだわりが強い『姉』は、フズのそういったところに時折嫌悪感を露わにする。けど、今は文句をぐっと飲み込んでいた。おはよう、と言って俺たちを柔らかい笑顔で迎えたフズは、早速用件を話し始めた。
「それじゃ、連絡からね。ギンガは引き続きバンドから次のライブの楽器メンテナンスとその他手伝いをお願いしたいとのこと。十一時から先方の事務所で打ち合わせが入ったから、支度したら向かってね」
「はーい」
「アシスタントは用意してあるから。ツキミは……この間のブランドとのコラボ商品が今日から展開で、商品開発の人が一緒に店舗を見ていかないかって招待が来てるけれど、どうする?」
「行く行く!」
「わかった、すぐに返事しておくね。待ち合わせは十三時だから、それまでは自由時間でいいよ。アマノは店舗の候補地のオーナーのアポ取れたから、予定通り進めてくれて問題ない」
「ありがとうございます」
 フズは俺の方を見る。予定が入っている『兄弟』たちと翻って、俺はまったく予定が入っていない。スケジュールはまっさら。いつものことだ。俺、ここにいなくてもいいんじゃないかとか思ったこともあるけれど、フズは必ず顔を見せてと言うから仕方なく立っている。
「タイヨウはどうする?」
 俺のときだけ、ただ俺はどうしたいのか聞いてくる。今日のことは何も決めてなかったから頭を掻いた。
「んー……じゃあ、学習プログラムでもやるよ。あとは他に予定あれば、マザーにでも言っておく」
「わかった。今日も頑張ってね。みんなも、今日も一日元気にね」
 はぁい、と俺たちはそれぞれ適当に答える。
「やっぱり、一応言っておいた方がよかったんじゃないの」
 廊下を歩きならが、ツキミが強めの口調で言った。
「いいって。前は異常なしって出たんだから。俺の『メモリ』はただの不良品ってだけ。じゃ、今日もいってらっしゃい、兄弟たち」
 廊下の分かれ道で俺は立ち止まって言った。もう、とツキミは頬を膨らませる。
「拗ねるな弟よ。もしかしたら、とっておきの隠し球かもしれないんだし。ほら……タイキバンジョー?」
 ギンガが自信たっぷりに言うけれど、俺たちは顔を見合わせてしまった。
「大器晩成だろ」
「そう、それ。さすが、タイヨウは頭がいい!」
「嫌味っぽいぞ。いいからさっさと行ってこいって」
 素っ頓狂な顔をしたギンガに笑いながら、俺は三人を見送った。