サリンジャーの作品です。新潮モダンクラシックスより。最近、家にいる時間も増えて、ハードカバーの本も抵抗なく買って読むようになりました。これまでは通勤中とかによく読んでいたから、文庫本や新書サイズばかりだったので。
帯には「もうひとつの”九つの物語”」とある通り、9作品が収録。サリンジャーの作品は好きで、特にグラース一家の物語は惹きつけられるものがあります。前半に収録されているのは、「ライ麦畑でつかまえて」に登場するホールデンと、その兄ヴィンセントと、その友人ベイブが中心となる物語。ライ麦〜では、外伝のような一面や、その後を彷彿とさせる物語たち。特に兄ヴィンセントがどういった人なのかというのが、彼を主役に立てた「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる」や、友人ベイブ目線で描かれた「最後の休暇の最後の日」、「他人」といった作品で描かれています。特に、「最後の休暇の〜」でベイブの家での食卓のシーンが印象的でした。
表題にある「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる」は作家でもあるヴィンセントが、基地のトラックの中で、これからダンスパーティに行くという場面でホールデンのことを思うお話。時系列で言うと、ライ麦〜のあとの話で、それからホールデンがどうなっているのかが判明するのですが、それがなんとも言えないほど、切なくさせられます。ひどく繊細で、でもなんだか憎めないような、親しみのようなものを感じる若者と、それを思う兄ヴィンセントの最後の文が、特に。このお話にもちらりとグラース一家の一人が登場するのですが、思わず「あっ」となりました。
後半「ハプワース16,1924」はグラース一家の長男シーモア・グラースが7歳のとき、弟バディと一緒に参加したサマーキャンプで、両親にあてた手紙が中心です。ただ、これはただの手紙という形式ではなく、大人になったバディが、両親からその手紙を受け取るという前振りがあります。「シーモア序章」や「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」、「ゾーイ」ではバディ・グラースによる語りがあり、グラース一家の語り手といえば彼というところもある一方、ハプワース〜ではシーモアが弟バディに対してどのように思っていたのかという一人称的な面も見られます。バディは、自分は「バナナフィッシュにうってつけの日」で自殺した兄のことを描写する役割を与えられていると自覚している一方で、7歳のときの兄は弟である彼を非常に理解し、信頼し、そして愛していたのだということが、読んでいて伝わります。
たしか「ゾーイ」では、年の離れた弟ゾーイと妹フラニーの物語なのですが、そこでフラニーはすでに亡くなっている長兄に会いたいとこぼし、バディじゃだめなのかといった話があり、ゾーイからしてみると、次男バディはシーモアのやることならばなんでも真似していた、といった評価で、当時読んでいてなんだかなぁ、シーモアの存在が彼ら弟妹たちには強いのだなと思っていたのです。だからこそ、今回のこのハプワース〜を読んで、シーモアのことのみならず、バディのことをより好きになっている気がしました。
7歳にしてあまりにも達観、成熟した手紙を綴っているシーモアですが(この手紙の中で語られるバディも、本当に5歳児かというほどなのですが)、ところどころでは今後の彼ら兄弟の将来的なことを示唆する内容もあります。「フラニー」でも思ったことではありますが、非常に宗教的な観念なども含まれた内容であり(キリスト教のみには留まらず、禅や東洋思想なども含まれています)、難解なところもありますが、自分としては、シーモアは純粋な物を心から愛し、愛することをまた愛していたのではないかと、より思わされました。他のグラース一家の物語も、すでに読んだことはあるのですが、改めて読み返してみたいと思います。