The Wall

2023/12/30

10_Sample

プロローグ

 疲労で重たくなった体を持ち上げて、ようやくアーチは壁の淵に上った。腰回りから提げた道具入れがぶつかりあってかちゃかちゃと音を立てる。
 高さ約十八メートルの壁の上に立ち、大きく息を吸う。冬の訪れを感じる、鼻の奥につんと入り込んでくる冷たくて、埃っぽい朝の空気。遠くの灰色の空からようやく太陽が起き出そうとしている。壁の内側では見られることのないこの高さからの朝日を浴びようと、うんと伸びをしてみる。
 足場は八十センチメートル程度。遠くで見えるのは、中心街にそびえる白のビル群とその街並みをぐるりと電車の線路だ。壁よりも高い建造物が並び立ち、さらに奥には建設途中の高層ビルの骨組みが朝日に照らされている。
 一方で彼が立っている壁のすぐ下は、永遠に描かれ続ける落書きがようやく落とされたところだ。狭い道の向こう側には、バリケードのように低い建物が壁沿いに並んでいる。
 この巨大な壁は、かつては一つだった街を二つにした。
 年配の話好きたちは、壁が建設された当時のことをよく子供たちに聞かせたがった。そのときに自分たちがどれだけ苦労をしてきたかということを。そして、壁のはじまりは本当に小さなところからだったということを。
 本来一つだったときの街の名を口にする者は消え去り、内側は『ウォード』、外側は『ガーデン』と呼ぶようになって何年も経ち、アーチはウォードで育ってきた。壁の内側と呼ばれる土地は、ある者はかつて収容所だったと語り、ある者は廃棄場と呼んだ。いずれにしても、人々から疎まれたものたちがそこに積み上げられていた。土地はどんどん膨れていき、その中で働く者や関係者が根付いた。生活に必要な物を満たすための商売が発生し、それは周囲の土地を侵食しながら広がっていった。気が付けば、一つの区画となり、コミュニティになっていた。しかし、それを懸念したのはそこから遠くに住む人々であった。その膨れていく土地を止めようと作られたのが、この巨大な壁だった。
 今となっては、この壁の内側の世界は、ガーデンで『普通』の生活ができなくなった者をとにかく押し込めておくための、巨大な収容施設だ。
 そんな老人たちの話を聞かされてきたアーチも例に漏れず、ガーデンが嫌いだ。ずっと聞かされたせいでもあるが、あの遠くで立ち並んでいる高層ビルから見下している街そのものがひどく傲慢なものに見えるからだ。そのせいなのだろうか、まだ眠っている街と同じくらいの高さに立って、睨むように眺めてから降りることが習慣になっていた。
 同じように仕事を終えて同僚たちは、アーチを横目に後ろに下がり、壁の内側へと降りていく。彼らが降り始めて少ししてから、アーチも降下用のロープをしっかり両手に握って内側へと降りた。もう数分もすれば、彼らが磨いた壁をガーデンの人間たちはいつもの景色の一部にして眺めるのだろう。ウォードから見える壁は消されることのない落書きと、汚物を投げつけたような跡にまみれているが、作業員を含めて誰もそれを気に留めることはない。彼らの仕事はあくまで、『ガーデン』から見える壁が綺麗になっていればいい。それでガーデンに住む人間は、この街は清潔で安全であると安堵するために。
 体に巻き付いたいくつもの安全用の機材を外し、ヘルメットを片手にぞろぞろと作業員たちは事務所へと重たい足取りで歩いていく。アーチは赤毛の髪をかき上げた。ヘルメットの中で汗をかいていてべたべたするし、洗浄機で汚れた水が跳ねて、顔についた泥が乾きつつある。黒ずんでいる厚手の手袋で頬のむずむずするところを擦れば、汚れは広がっていく。大きく欠伸をした。家に帰ったらシャワーでも浴びてさっさと眠りたかった。
 ロッカーに作業着を押し込み、ほとんど物の入っていないリュックを片腕に通してすぐ隣の部屋に入る。すれ違う同僚たちと互いに「お疲れ」と口にしながら、事務室の隅の列に並んだ。アーチと同じくらいの年代の事務員が、一人一人の名前を確認しながら今週分の給料を封筒に入れて手渡している。隈がくっきりと刻まれた両眼は今にも閉じてしまいそうではあるが、手はてきぱきと動いていた。前の作業員たちは給料を受け取ると、すぐさま帰っていくものの、顔見知りの一人がアーチを見つけてふと足を止めた。
「妹、結婚するんだって?」
「あぁ、うん。明後日」
 アーチはそれでふと目が醒めた気がした。同僚はにこりと笑みを浮かべる。
「じゃあ、よく休んでおかないとな。おめでとう」
「ありがとう」
 口笛を吹きながら同僚は事務所を出ていき、アーチのすぐ前には事務員が名簿を指先でなぞっていた。
「オルコットです」
 アーチは番号だけが書かれた作業員のカードを机に置いた。
「はい、はい。えーっと、今週は……四日も勤務されていたんですね。はい、こちら」
 手早い計算と共に金を封筒に入れて、事務員はアーチの前に置いた。
「どうも」
「おめでとうございます」
 先程の会話が聞こえたのだろう、ぼそぼそといた声で事務員は言った。あまり他の作業員とも必要最低限の会話以外をしているのを耳にしたことがなかったので、アーチも目をぱちくりとした。それでも祝いの言葉は嬉しかった。ありがとうございます、と彼は会釈をした。


Chapter Ⅰ

 壁の外では朝日が顔を出しているが、まだウォードは薄暗い。灰色がかった雲に覆われた空の下、アーチはしかめ面をしながら自転車を漕いでいた。外にいるのは早朝仕事を終えて帰路に着く彼と、脇の路地で寝転んでいる酔っ払いかホームレスたちだ。それらを時折横目で捉えるが、すべて日常の風景に溶け込んでいた。
 緩やかな下り坂はペダルを漕がずにそのまま走り、薄く濁った雨水が溜まっただけの噴水がある広場を横切った。住宅は所狭しに並び、適当に建て増しされたせいで傾きかけているものもあれば、窓を開ければすぐ隣の建物の扉に手が届くほど隣り合っているアパートさえある。ウォードに住む人間は日に日に増えて、しかも住める場所に人が集中しているせいだ。それに比べれば、アーチの家はかなり良い家だと、彼自身思っていた。一階はアパートのオーナーの親族が運営しているレストランがあり、アーチの部屋はその上にある。レストランはまだ閉まっていて、しんと静まりかえっている。屋外の階段をそっと上り、玄関の鍵もできるだけ静かに開けた。
 玄関に自転車を置くと、彼はふーっと大きく息を吐いてくしゃくしゃの赤髪を掻いた。汚れでべたついている髪を先に洗うか、それとも何か食べるか、はたまたこのまま眠るか、考えているようで何も考えがまとまっていなかった。四日の壁掃除仕事は流石に堪えた。その間も、昼間は下のレストランや画材屋でのアルバイトをこなして、眠る時間もあまりなかった。けれど、明後日までは休みを取っている。
 何より先に寝よう、とアーチは大きなあくびを一つした。玄関からすぐに小さいキッチン付きのリビングルームがあり、テーブルにはメモと皿が、他の書類や手紙を押しのけて真ん中に置いてあった。彼が家を出るときにはなかったものだ。メモには『食べてね』という短い言葉があり、皿にはサンドイッチが二つ、ラップにかけられていた。今眠っている同居人が作って置いてくれていたのだろう。うっすらと見える青紫色のジャムに彼はふと微笑み、空腹を感じた。やっぱり先に食べてしまおう、と彼は荷物を床におろしてソファに腰掛け、ブルーベリージャムのサンドイッチを齧った。甘いジャムに、体が疲労を思い出したのかソファに頭を預ける。このまま眠ってしまいたいと顎を動かしながら目を閉じかけるが、どうにかすべて口の中に収めると皿を持って立ち上がった。片付けをしながら、ふと壁にピンで留めたカレンダーを見やる。二日後の日付には大きな花丸が書かれていた。
 床に投げ捨ててあった荷物を持ち、テーブルの上の追いやられた物たちの中からペンを見つけると、メモに走り書きを付け加えて部屋に入った。ベッドがぎりぎり収まり、淡い黄緑の壁紙が禿げかけた部屋。立て付けの悪い窓が一つあり、ようやくウォード街に入り込んだ朝日がここにも差し込んできていた。ベッドの上に寝転び、すでに眠りの世界に入りかけていた彼はそのまますとんと落ちていった。
 あまりの疲労だったからなのか、いつもは同居人が出かけるころには目を覚ましていたのだが、起きたのは昼ごろだった。すっかり外は明るくなり、街の喧騒が遠くから聞こえていた。仕事、と飛び起きたもののすぐに今日は休みだったことを思い出したのも束の間、別な予定を入れていたことを思い出してベッドから降りた。壁掃除からの服のままで眠ってしまったのも後悔した。くしゃくしゃの髪はなお寝癖がひどくなっていて、適当な服をベッド下の収納から引っ張り出すと、早足でシャワー室に向かった。リビングを通り抜ける途中、アーチはふとテーブルのメモに書き足した『ごちそうさま』の文字の後に、『おつかれさま、いってきます』という文字が書き足さられるのを見た。こんな言葉のやりとりができるのも、もう何日もないんだな、とシャワー室で汚れを落としながら彼は物思いに耽る。
 妹が結婚する。それも、彼女が望んだ、良いパートナーと。それほど素晴らしいことはない。それでも寂しくもあるのは、彼女と二人で生活してきた歳月があまりにも長かったからだろう。それでも最後にはこの答えに行き着く。きっと良い家族になれる、あの二人なら。それが妹にとっての最大の幸福だ。それに俺にとっても。あたたかくて、支え合う、そんな家族。俺たちの家とは違って……。
 数十分後、髪も少し湿ったままでアーチは階下のレストランに入った。
 人の姿はまばらで、窓際のテーブルに老人の二人組が冷めたコーヒーを前に話しこみ、カウンターでは昼休み中の作業員が皿をつついていた。入ってすぐ左手にある明るい緑で塗装した木製のカウンターの内側には、大柄な男がのっそりと手を動かしている。熊のようだとも言われる男は、窮屈そうに見えながらもてきぱきと手を動かしており、アーチが入ってきたことに気がつくと、あぁ、と低い声で呟いた。アーチは会釈をして、カウンター近くのテーブルについた。カウンターと同じ色で塗装したのを、アーチも数年前に手伝った。それももう脚がガタついている。
「ん」
 カウンターにいた男が、コーヒーの入ったカップをアーチの前に置いた。
「ありがとうございます。バートは?」
「休憩中」
 くぐもった声で男はそう答えると、再びカウンターの中に戻る。大柄な体格な上に表情の変化に乏しいために不機嫌そうに思われがちだが、店主のグライドはひどくあがり症で人と話すのも一苦労だという彼にはホール担当が欠かせない。アーチは熱いコーヒーに口をつける。シャワーの水が冷たかったので、体はすっかり冷えていた。飲み物で暖をとっていると、ばたばたと小走りの後に勢いよく店の扉が開けられた。
「ごめん、待たせた?」
 アーチの前に座ってきたのは、彼と同世代の女だった。適当にまとめた長い黒髪を後ろにやって、店の入り口の方に視線をやって手招きをした。アーチが振り返ると、膝に手をついて息を切らしている男の姿があった。
「そんなに急いで来なくても」
 颯爽と走っていく彼女と、それを必死で追いかけていた男の姿が目に浮かび、アーチはそう言った。
「時間間違えたかと思って」
 彼女の方はけろりとして、カウンターに向かって「アイスカフェオレください!」と大声で言う。店主はこくりと頷いた。
「アダムは?」
「み、みず……」
「じゃサイダーで!」
 アダムはまだ肩で息をしながらもどうにか女の隣に座る。背は高く、気弱そうで青白い表情で耳につけたいくつものシルバーのピアスを、気分を落ち着かせるために触っていた。
「やぁ、アーチ」
 それでも男は笑みを浮かべようとしていた。
「アダムも、付き合わせて悪いな」
「ううん、僕が、ミアに付いてきただけだから」
「そういうわけだから、さっそくね。あたしたちの予定表は書いておいたから。これ、帰ったらレズリーに伝えておいて。向こうは何時から使えるんだっけ?」
 厚い手帳を広げながらミアはてきぱきと話し、アーチにもメモを渡した。
「教会は朝八時から使っていいって」
「開始十一時だよね? うん、まぁ、大丈夫だと思う。相手の方はどうするか聞いてる?」
「向こうは向こうで準備するってさ」
「本当は揃えたかったけど、しょうがないか。確認しなきゃいけないのはこれくらいかな。あ、ちがうちがう、忘れてた」
「報酬の話じゃなかったっけ」
 まずはその話ではなかっただろうか、とアーチは肩をすくめる。するとミアは笑いながら「そうだけれど、そうじゃない」と答えた。
「式の後の移動の話。こっちで食事会でしょ。この前片付けしてから向かうってあんた言ってたけど、でもそれじゃ遅れて参加になるじゃない? だからあたしの友達に片付けだけ手伝ってって頼んだんだんだ。だからレズリーやあんたはそのままこっちに移動しておいて」
「そりゃ助かるけど、その分の手間賃、今から考えるにしたって……」
「どうせ一時間もかからないんだから。それに、あたしが課題手伝ってあげた子たちだし、レズリーにはあたしの制作のモデルやってもらうことになってるから、その辺は考えなくていいって」
 アーチはため息をつきそうになる。ここまで手際が良いとは。思わず苦笑を浮かべながらも礼を言うことくらいしかできなかった。
「それで、アーチからもお礼にちょっとして欲しいことがあるんだけれど」
「聞ける範囲なら」
 ミアは一度口を閉じた。言おうか迷っている様子だった。
「ほい、飲み物お待ち」
 そこに割って入ってきたのは、店主ではなく休憩から戻ってきた若い金髪の男だった。シャツの上にエプロンをかけていたが、飲み物を置くなりアーチの隣の椅子に腰掛けた。
「よぉ、ミアと……えーっと」
「アダム」
 アーチが咎めるように名前を告げると、男はそうだった、と指を鳴らす。名前を覚えらえていない方はあまり気にした様子でもなく、小さな笑みを返した。
「どうも、バート」
 ミアは挨拶の後に、どうやら言うことを決心したのかアーチの方を見た。
「絵が欲しいの。今度卒業生たちで作業部屋を使って展示会をやることになったんだけれど……壁がぼろぼろだし、きっと見栄えもするし、と思って」
 言葉を探しながらなのか先ほどよりもゆっくりと話すミアに対して、アーチは視線を落とした。
「それだったら、そういうクラスの在校生に言ったほうが、喜ぶんじゃないか? それで誰かの目に留まればって思うだろうし。それに、もう全然描いてない」
「あるものを貸してもらうのは?」
「とっくに捨てたよ、邪魔になるだけだし」
 悪いけれどそのことに関しては何も出来ないよ、と力なく笑いながらアーチが言うとミアは寂しげな表情をした。憐れみというより、本当に残念がっている様子に胸が痛んだ。
「こっちばかり助けてもらってるのに、ごめん。それとこれ、ドレスのお礼」
 アーチはいくらかを入れた封筒をテーブルの上に置いた。今日会う用件はこのためだけのはずだったのだ。
「……その、作業部屋のこと、壁の塗装とか修理とかだったら手伝うから、その時は連絡してくれよ」
 言い訳がましいことを言っていると、自分でも自覚していた。ミアは首を横に振った。
「ううん、こっちこそ、いろいろと話しすぎちゃった。そろそろ仕事戻らないと」
 飲み物代を置いてミアは席を立とうとしたが、アーチが払っておくからと言って二人を送り出した。
「ありがとう、当日楽しみにしてるから」
「うん、よろしく」
 二人が並んで歩いていくのが見えなくなると、バートは小さく口笛を吹いた。
「あの彼氏、お前を警戒してるな」
「そんなわけないだろ」
 呆れながらアーチは座り直す。アダムがいつもミアと行動を共にしているのは、単にそうしたいからだろう。彼女にとって自分は、かつての同級生で、数年来の友人であるということはアーチ自身も自覚しているし、何よりミア自身だってそう思っている。
「じゃあ、俺も出るから」
 飲みかけのコーヒーを流し込むと飲み物の代金をテーブルに置いて、アーチは再び席を立つ。
「今晩どうするんだよ? 兄妹で最後の晩餐か?」
「残念だけれど、友達の家で女子会だってさ」
 冗談めかして言うと、フラれてやんのとバートも軽快に声を上げて笑った。グライドには会釈をしてから外に出ると、広い道路に続く道を下った。朝方とは違って、人や乗り物の往来が増えている。黄色の、のろのろと左右に揺れながら進んでいくバスに飛び乗り、後方の席に座った。車内の広告には作業員募集の求人に紛れて、展覧会のポスターが貼ってあり、思わずそれから目を背けた。ポスターには『壁から飛び出した天才・ラパル、凱旋』というキャッチフレーズとともに抽象的な彼の代表作の絵画が載っていた。
 バスを降りたのは、人通りの少ない重苦しい建物の前だった。他に降りた乗客はいなかった。鉄格子の門を前にすると、どうも首周りが窮屈な感覚が押し寄せてくる。早足で彼は守衛室の前を通り過ぎていく。目の前にあるのは、どうにか清潔感を醸し出そうとしている灰色の重厚な建物だ。エントランスの奥側はガラス張りになっていて、そこから中庭が見えた。看護師と簡素な服を着た者たちが日光を浴びにベンチに腰掛けていたり、軽い体操をしていた。左手には受付があり、ガラス戸越しに中を窺う。職員の一人が気付くと、にこやかに彼を迎えた。アーチも顔馴染みの職員だった。
「面会ですよね。準備できてますよ、どうぞ」
 監獄の中の監獄。アーチは内心この施設のことをそう思っていた。どんなに清潔で、職員の何人かは親切で明るくとも、陽が差す窓が部屋の高いところに一箇所だけの薄暗い面会室に入ったときには。
 部屋はコンクリートが打ちっぱなしの壁で、アクリル板で部屋自体が区切られ、奥には鉄格子の重々しい扉が佇んでいる。アクリル板の手前に固定された椅子に跨るように座っていると、板の向こうの扉が開いて、無表情を貼り付けた警備員に連れられて男が入ってきた。ひどくやつれて、目が落ち窪み、体に力が入っていない。淡い水色の入院着は皺だらけで、襟元には斑点模様の染みがある。
 男は警備員に軽く背中を押され、よろけながら椅子に腰掛けた。その男を目の前にすると、アーチは喉に何かが詰まったような感覚を覚える。ぼさぼさの髪は長い間洗わずにろくに櫛も通さなかったのか、絡まって固まっており、その隙間から覗く目には目やにが残っていた。それなのに、何かを見透かしてくるようで、アーチは視線を逸らす。
「ひでぇ隈だな」
 先に口を開いたのは男の方だった。這うような抑揚のない言葉だ。自分が言う台詞かよ、と言い返そうとして飲み込んだ。
「明日、レズリーの結婚式だ」
「先週、話に来たぞ」
 アーチの眉がぴくりと動いた。そんな話はしていなかった。まさか、黙って面会に?
「……リハビリの状況は?」
 続きを話す気がなく、アーチは本題へと切り替えた。男はため息を吐いてから、ごまかしの笑みを浮かべた。そんなものに意味がないと、アーチ自身さえも冷たく侮辱したような笑みだった。その表情が何よりも不愉快だった。男は話すつもりもないのか、背もたれに深く体を預けてこう言った。
「お前、昔の俺に似てきたな」
 この男は知っている。そう言えば自分が怒り、傷つくということを。二度と来るものかと怒鳴りつけた後に、再び面会したことに自分だけが嫌な思いをするのも。前回は何を言ったことが原因だったのか、思い返そうとしただけでも頭が痛い。アーチはため息をつかないようにと咳払いを一つした。
「じゃあ何もせず、する気もないんだな」
 する気もない、という箇所には特に言葉を強くした。むすっとした男は視線をそらしたものの、すぐに目を見開いた。
「これ以上俺に何をしろっていうんだ? 医者だの、なんかの肩書きの奴らが、偉そうに話したところで、何が変わるっていうんだ? 問題は、仕事と金がなかったってことだ。それを、あんなメモ取って人の話きいて適当に相槌打っている……」
「問題なのは、あんたに自覚が何もないことだ」
 怒りを滲ませながらアーチは言葉を遮った。本当は、言いたいことはたくさんあった。全部お前のせいだ。それで俺と妹の生活も人生もめちゃくちゃだ。こみ上げてくる感情をどうにか抑え込む。
「ようやく、人並みの幸せを掴めるんだ、あいつは。あんたも、その邪魔にならないようにだけでも、考えてみろよ」
「邪魔?」
 男は痩せた体に見合わず素早く身を乗り出した。アーチは扉のすぐそばで控えている警備員を一瞥し、目の前の男を冷ややかな目で見下ろすように席を立った。警備員が応じるように男の背後に近付いた。
「俺は、あんたみたいにはならない」
 男が怒号を上げて立ち上がろうとしたところを、警備員が肩を掴んだ。叫び声は意味をなしておらず、怒りに任せて机を両手で勢いよく叩く音が響いた。アーチは自分を呼び止めるような怒号も無視して部屋を出ると、廊下で待っていた職員に会釈をした。
「やっぱり、今回も難しかったですか」
「……すみません」
「いえいえ、そんな謝らないでください。あの、よければ今度、家族会とか出られたらどうですか? 同じような患者さんのご家族が集まって、どうされているかとか……やっぱり、お忙しいですか?」
 廊下を歩きながら、職員の案内にアーチは頷いた。
「いえ、予定だけ教えてもらえれば、考えておきます」
 そうやって、あいつは俺たちの時間を蝕んでいくと思ってしまう。妹だったら前向きに参加するだろうに。
「先週、妹……レズリーが来たって言ってたんですけど」
「えっ、あぁ、はい」
 職員も、アーチが知らなかったことが意外そうに頷いた。
「確か、学校の帰りか何かに少し時間が出来たからと言っていらっしゃいましたよ」
「あいつ、どうでした? レズリーだと、言うこと聞きますか?」
「どうでしょう……立ち会った警備員が言うには、妹さんがずっと話しているのに、何も答えないでいたみたいで。その後すぐに帰られたかと思いますよ」
「そうでしたか」
 エントランスに戻り、二人はいつものように次の面会の日程を決めた。さっさと出ていこうとしたところ、別な職員が小走りで彼のもとにやってきて、預かっていた伝言を伝えた。
「昨日、ブラックウェルさんからお電話がありました。息子さんに話があると」
「話?」
「詳しくは聞かなかったんですけれど……」
「わかりました。ありがとうございます」
 アーチはしぶしぶ引き返して、施設の一階の奥にある電話スペースに向かった。公衆電話が二台並んでいて、その一つの前で財布の中の硬貨を確かめた。そんなに長話は出来なさそうだ。硬貨を入れて、ブラックウェルの番号にかけると数回の呼び出しで応答があった。
「アーチか?」
「そうですけど、用件は」
 ぶっきらぼうにアーチは答える。
「悪いな、忙しいのに。オスカーから電話があって、レズリーが結婚すると聞いた」
「あいつ、電話出来るんですね」
 そもそも、あの父親が壁の外にいる人間に電話をかけているという事実に少し驚いていた。ブラックウェルが彼を心配して電話をしたのかもしれないが、いずれにしてもアーチたちは一度もそんなことをしたことがなかった。
「祝いの言葉でも妹に伝えておけばいいんですか?」
「それもあるが、アーチ、結婚式はいつなんだ」
「……それ知ってどうなるんですか」
 アーチは早く重たい受話器を置きたかった。そもそも、なんで俺にそんなことを聞くんだ。あいつに直接聞けばよかったものを。
「アンジェリカのことだ」
「は?」
 告げられた名前を一瞬誰のことか、理解が出来なかった。ブラックウェルはもう一度その名前を言う。
「だから、それがレズリーの結婚と何が関係あるんですか?」
 苛立ちを滲ませながらアーチは尋ねる。
「式に、行きたいと言っていたんだ。もし出来ればだが。一日、どうにか時間を作って」
 いまさら、なんだよ。最初の言葉を放ちかけたところで、アーチは苛立ちを抑えるために大きくため息をついた。ブラックウェルの方も、アーチがどんな顔をしているのか想像がついたのか、どこか諭すような口調だった。
「急で苛立つのはわかる。……ただ、もう長くないかもしれないんだ。だからせめてと」
「長く、ない?」
 唐突に突きつけられた言葉に、想像以上にアーチは落ち着いていた。硬貨をもう一枚投入する。
「どういうことですか?」
「オスカーから何も聞いてないのか?」
「聞けると思いますか? まともに話もできないのに」
「詳しい事情は、そのうち話す。それで、どうだ? 時間と場所をせめて教えてくれないか。そうしたら、あとはこちらでどうにかする」
 アーチは口を開きかけたまま、黙っていた。これはレズリーの結婚式だ。決めるのは彼女自身でなければならないはずだ。もし、来たとしたら喜ぶだろうか? きっと落胆は見せないはずだ。でも、内心はそうではないかもしれない。悲しませるかもしれない。そうしたら、せっかくの日が台無しになる。
 それに、今聞いたことを伝えることだって。
「状況は後から伝えておきます。でも、明日は来ないでください」
「アーチ」
「もう俺たちに母親はいないんです。父親も」
 だらりと落ちた手は受話器を元の場所に戻した。電話の上に置いておいた硬貨を財布に戻し、早足で出入り口に向かう。もしかしたら施設にまた電話がかかってきて、彼を説得しにかかってくるかもしれないと、逃げるように。受付にいた先程の職員に軽く頭を下げて、施設の門から離れるとようやく大きく息をつくことができた。レズリーに何と伝えよう。バスに揺られながら、ずっとそのことを考えていたものの、アパートに戻っても考えはまとまっていなかった。しかし、部屋には人の気配があった。
「レズリー?」
 声をかけると、ややあってから「おかえり」と奥の部屋から笑みを見せる妹の姿があった。
「もう出かけるんだっけ」
「うん。着替えのために寄ったの」
「これ、ミアから預かってたんだ。明日の予定だって。一応、見ておいて」
 ありがとう、とレズリーはメモを受け取ってすぐに目を通した。アーチは開きかけた口を閉じる。先程のブラックウェルからの電話を伝えようと思って、やめた。
「親父に、会いに行った?」
 なるべく穏やかな口調で彼が尋ねると、レズリーは目を上げてから「えぇ」と答えた。
「一応、ね。でも、大した話は出来なかった。だからすぐに帰っちゃって……言うの忘れてた」
「あぁいいんだ、別に。あいつがそう言ってたから、そうなのかなって思っただけで」
 弁明というよりは、本当に落胆しているような妹の言葉に、アーチはどこかほっとした。職員が言っていた通りだ。あいつが、今更そんなことで祝いの言葉の一つでも言ったのなら、余計に苛立っていたかもしれない。レズリーはメモを二つに畳んだ。
「そろそろ出かけるね」
「うん。独身最後の日、楽しんで来なよ」
 レズリーはくすくすと笑って頷いた。それからふと思い出したかのように両手を合わせた。
「ねぇ、兄さんの絵を一枚持っていきたいの」
「パーティーに? なんで?」
 素っ頓狂な声を上げた彼に、レズリーは首を横に振る。
「違うって。ローリーとの家に。だめかな?」
 アーチは頭を掻いた。今日はよくそのことを言われる。
「そう言ってもらえるのは嬉しいけどさ、もう絵は捨てたよ。年末の大掃除のときに、レズリーも見てただろ」
「捨ててないよ」
「えっ?」
 はっきりと言い返す彼女に、アーチは眉を寄せた。
「捨ててないの、本当は。私の部屋に、何枚かあるの」
 レズリーは視線を床の方に落とした。呆然と見つめてくる兄の視線と合わせないように。叱られることをわかっている子供が、その瞬間を遅らせようとしているように、レズリーは落とした視線をちらりと上げた。
「じゃあ、許可なんていちいち取らなくていいだろ」
 ため息まじりにアーチは答えた。レズリーはぱっと顔を輝かせて、ありがとう、と兄の首元に腕を絡めた。その抱擁に軽く背を叩いてやり、「出かける準備はいいのか?」と冗談っぽく尋ねた。
「私がいない夜ですけれど、どう過ごされるご予定で?」
 両肩に手を置いたままレズリーが何気なく聞いた。
「適当に。寝坊だけしないようにさ。多分、バートの奴がくると思うけど」
「じゃ、そっちも楽しんで」
「はいはい。はしゃぎすぎて転ぶなよ」
 わかってるよ、と笑いながらレズリーは荷物をまとめに、再び自室に戻った。アーチがリビングで古い映画のパンフレットを眺めていると、大きなバッグに荷物を詰めた彼女が慌ただしげに横切っていく。
「大丈夫? 送って行こうか?」
「途中で迎えに来てもらうから、大丈夫!」
 玄関の前ではたとレズリーは立ち止まってアーチの方を向いた。どうした、と尋ねると彼女はなんでもないと笑みを浮かべ、
「また明日!」
 そう言って部屋を後にした。
 ばたんと扉が閉まる。途端に部屋全体が静まり返った気がした。パンフレットのページをめくっていたアーチは、閉じてテーブルの上に置いた。そういえば、どの絵を持っていくつもりなのか、聞きそびれたと思っていた。けれど、ローリーの部屋に移るのはまだ先のことだし、引っ越しも手伝うようになっていたから、その時でいいかと疑問はすぐに振り払う。それよりも、母のことを伝えそびれた。
 レズリーは母のことをどれだけ覚えているのだろうか。それに、どう記憶しているのだろうか。まだレズリーは六歳だった。母が出て行った理由もよくわかっていないはずだ。それは自分もそうだったか、とソファに深くもたれかかってアーチは大きく息を吐く。ガーデンで生まれて、何不自由なく生きてきた母が、何の気まぐれかウォード出身の父と出会って、自分たちが生まれて、そして出て行った。
 ある日目を覚ましたら母の姿はなく、当時まだ家にいた父に、妹とともに母はどこかと尋ねた朝。父はリビングのソファで項垂れていた。まだ素面だったがすでに目の下には濃い隈があって、二人の頭を交互に撫でた。
「母さんは、出かけたんだ」
「どこに?」
「もう帰ってこない。学校、行ってこい」
 今思い返してみても、噛み合わない会話だ。けれども深く聞くことができなかった。あまりにも落ち込んでいる父を責めているようで、哀れに思ったからだろうか。それから学校から帰っても母はいなかったし、次の朝を迎えても姿はなく、いつの間にか母のいない生活に慣れていった。後になって現れたブラックウェルの話によれば、母はガーデン、つまりは壁の外にいることを知った。
 結局、壁の中の生活は窮屈だったのだろう。若いときは父に才能があると思って惚れ込んでいたのかもしれない。だがそれが幻想だということを理解したのだろう。随分と時間がかかったようだ。
 アーチは背もたれに預けていた頭を起こす。眠りに入りかけていたが、ドアを激しく叩く音がした。
 相手は誰だかわかりきっている。気だるく体を起こしてドアを開けると、バートが立っていた。
「妹もう出かけた?」
「とっくに。なんか用事?」
「どうせ暇してんだろ。飯行こうぜ」
「わかった。毎回思うんだけど、お前もうちょっとドア軽く叩くようにしろよ」
「いちいちこまけえな、もう小姑か?」
「変な使い方するなよ」
 呆れながら必要最低限の荷物だけを持って、アーチは部屋を出た。