祈りの横顔 / ???

2023/02/23

20_rikka


 ロンウェン地方との境界付近にある、ヨーラフートの小さな街だった。石畳が敷かれ、白い石で出来た街並みは上り坂に沿って続いている。坂の下側は広場になっていて、水の流れていない噴水の淵に人が休憩に腰掛けていた。通りを行く人は忙しなく、そしてどこか楽しげであたりを歩き回っている。坂を挟んだ建物の高い窓からは飾りが吊るされていて、ロープに黄色と橙色の刺繍が入った緑色の布が、そよ風ではばたいていた。
 彼女は広場に立って、あたりを見渡していた。肩の位置より若干伸びた髪を無造作に後ろに撫でつけて風のままにさせている。簡素な装いに男性用とも思える大きな灰色のコートを羽織っていた。リュックサックと腰から提げているポーチの二つからにしても、旅人であることが窺える。
 このまま坂を上がって行こうか、それともどこか商店でも探そうか。そう考えを巡らせていると彼女のすぐ近くで十歳にもならない年頃の子供たちが駆けていく。きゃあきゃあというはしゃぎ声に彼女も振り返ると、そのすぐ後に一人が思い切り転んだ。石畳に膝を擦りむいた少年は、涙ぐみながらその傷を眺め、仲間の子供たちは彼を囲んでどうしたものかと互いに顔を見合わせる。
「泣かないの、えらいね」
 彼女は少年の前で膝をつき、ポーチから薬とガーゼを取り出す。
「いたいっ!」
 消毒と共に血を拭われ、少年は悲鳴をあげる。いたそう、と隣で覗き込んでいた少年は顔をしかめていた。彼女はてきぱきと手を動かして、ガーゼを当てた。
「はい、これでよし。ちゃんと大人に、怪我したことを言ってね」
「わかった、ありがとう、おねえちゃん!」
 少年は元気よく立ち上がって大きく頷いた。彼女もにこりと笑みを返す。再び子供たちは走り出したが、一人だけそこに立ち止まって彼女を見ていた。彼女が外から来た者であると気付いているのだろう。
「どうかした?」
 優しく彼女は声をかける。
「おねえさん、どこから来たの? 都会のほう?」
「ううん、もうちょっと、北の方」
「きた?」
「地図を広げたときに、上にあるやつ」
「そっかぁ」
「あの布は、なにかの飾り?」
 宙にたなびく布を示して彼女が尋ねる。先を歩いていた先程の子どもたちが走って戻ってくると、にこにこと口を揃えた。
「もうすぐお祭りなんだ!」
「そうなんだ」
 子どもたちは大きく頷いて、叫ぶような声で歌いながらスキップをしていく。言葉の端々から聞き取れるのは、春を迎えた喜びと豊穣を感謝するといった内容だった。小さな台風が過ぎ去ったかのように彼女はその集団が去っていくのを見送り、再び風にはためく布を見上げた。どことなく人々の表情が明るいのは、お祭りの準備をしているからなのだろう。開催日は近いのだろうか。それならばその日までここに滞在するのもいいかもしれない。はためく布を吊り下げている大きな坂の上を歩く。
 大きな通りらしく、店が並んでいる。パンを焼いた、やわらかくてふっくらとした匂いが漂ってくる。隣接している建物の一つ一つの軒先に、街を飾っているのと同じ柄の布が小さく飾られている。扉に掛けてあったり、ポーチの手すりから下げてあったり。宿泊施設は通りに二箇所あり、小さい方に彼女は入った。ロビーも飾り付けの準備中らしく、作業着を来た女たちが鉢植えを並べている。誰もいないフロントの壁に掛けられたタペストリーを眺めていると、十二歳程度の少女がブーツを引きずるように歩きながら奥から出てきた。テーブルの下から帳簿を取り出して、ペンを渡す。
「お名前の記入をお願いします」
 少女は緊張した面持ちで記入欄を指さした。エプロンの肩紐の片側が落ちそうになるのを、くいと引っ張る。彼女は礼を言ってから名前を書いた。
「お祭りまでは、あとどのくらい?」
「えっと、お祭りは二日後の予定です。この通りをもっと上がったところにある教会でやります。でも、明日にはお店のご飯がお祭り用になります」
「どうもありがとう。では、二泊させてください」
 名前を書いてから彼女は帳簿を幼いフロント係に向けた。少女はペンで二泊、と記入して金額を書いた。それを視線で追って、彼女はぴったりの料金をカウンターに置いた。
「お部屋は、二階の四つめになります。お、お夕食はどうされますか?」
 たどたどしい言い方になってしまったことが自分でも恥ずかしいと思ったのか、少女は頬を赤らめて鍵を渡した。
「街を見て回るので、今日は結構です。明日はまた考えさせてください」
「はい。荷物は運びますか?」
「自分でやるので、大丈夫です。ちょっと出かけてきますね」
 彼女は鍵だけ受け取ると、再び外に出た。遅い昼食を済ませるつもりだった。先程の香ばしい匂いを放っていたパン屋でも覗こうか、それとももう少し坂を上がってみようか。左右を交互に見てから、坂を登った先がふと気になって足を進めた。細い横道では、鼻をたらした子供たちが石の敷かれていない地面に描いた円の中に小石を投げるといった簡単な遊びをしているのが視界に入った。
 坂の一番上まで上った先は開けていて、奥には教会があった。背は低く、外壁には青と白のタイルが嵌められていた。教会というよりは少し大きな民家のようにも見受けられたものの、両開きのまま開け放たれた扉の内側には人々が椅子に腰掛けている様子がちらほらとあった。肩のあたりに教会のマークの腕章をつけただけの、簡素な黒のシャツを着た若い男が外で欠けた外壁を修理している。この街で若い男の姿は随分と珍しく感じた。彼女はふと男の足元に視線を落とす。ズボンの右足が非常に細かった。
 昼食を求めていたものの、彼女は何気なく教会の中に足を踏み入れた。特に何かの集まりをしているわけではないようで、各々が足を運んできては祈って、去っていく。祭壇は小さく、ベンチは中の広さに比べて少なかった。出入り口の近くで老人たちがぼそぼそと世間話をし、彼女を一瞥したものの特に気に掛ける様子はなかった。彼女は祭壇の近くまで歩き、壁に掛けられた絵を何気なく眺めた。最近描かれたような絵だった。灰色のヴェールを被った女の絵だったが、彼女はそれが何か知らなかった。このあたりに伝わる宗教的人物か何かなのだろうか。
「よければ、座りますか」
 ふと声をかけられてその方を見ると、ベンチに座っていた中年ほどの女が隣を示していた。彼女は会釈をして、示された通りに腰掛けた。
「よそからいらしたの?」
「はい」
 彼女はどう答えようか迷い、結局頷くだけになってしまった。
「何もないところでしょう」
 微笑みながら女は言う。作業着の上にエプロンをかけていた。エプロンは汚れていて、まるで作業の途中で休憩をしに来たようだ。
「綺麗なところだとは思います」
「嬉しいわ。辺境だったから、ここはあんまり戦争の被害は受けなかったけれど、人手が足りないもんだからね」
 女は朗らかに言うが、彼女はぎこちなく微笑みを返すしか出来なかった。そろそろ席を立って昼食に行こうかと思ったとき、かーん、かーんと、間延びした軽い鐘の音が響いた。教会に篭っていたひそひそとした話し声がぴたりと止み、隣に腰掛けていた女も手を合わせて俯いた。祈りの時間を待っていたのだろうか。自分もそうしたら良いだろうかと戸惑ったものの、隣にいた女の横顔を見ていた。黒い汚れのついた骨張った両手を合わせ、その手を額につけるように目を閉じている。口が何かを唱えているが、言葉までは聞こえてこない。
「誰に、祈っているんですか」
 沈黙の中で彼女の声が響いた。女は目を閉じたまま、唱えていた口を一度閉じてから、まるで全く別の言語を話す口にするように再度開いた。
「息子二人、妹夫婦、夫、近所の人、母、父、祖父母、子供のころに飼っていた猫、全て去ってしまった人たち、今生きている人たち、ぜんぶ。名前のあるもの、ぜんぶ」
 もう一度かーん、かーんと鐘の音が響く。人々は顔を上げた。女はくしゃりとした笑みを浮かべてから彼女の頭をそっと撫でた。
「あなたのことも」
 彼女の潤んだ目を見ての言葉だったのだろう。涙は一粒だけこぼれ、彼女は首を横に振った。感傷的になっていると思われたのだろうか。けれども、私にその資格はない。祈られることも、祈ることも。それはとうに諦めてしまったのだ。
「お邪魔しました」
 逃げるように足速で教会の外に出た。そのまま下り坂をずかずかと歩く。昼食のことも忘れて宿屋に戻ると、荷物を投げて部屋のベッドに倒れ込んだ。腕で目元を覆って目を閉じる。脳裏にはあの横顔が焼き付いていた。過去に、何度も似たような横顔をいくつも見てきた。それでも傷を治さなければ、血が止まらなければ、人は死ぬ。どんなに祈っても、あっけなく見放されていく。そういう無気力感を彼女は知っていた。それでもその祈りが何か意味のあるものになってほしいと願ってしまう。自分の知らない誰かが助かってほしいと願う、そしてその人が善良であってほしいとも。

 数日後、石畳の街の祭は無事に終わりを告げた。無事に終えられたことに人々は安堵していたのも束の間、まもなく訃報が流れた。どうやら少し前にこの街にやってきた者が亡くなったのだという。近所の住民が姿を見なかったので自宅を訪ねると、床に倒れて血を流していたという。殺人事件も疑われたものの、どうやら血は彼が吐き出したもので長年病を患っていたことから医師は病死とした。多くの住民はその者をあまり多くは知らなかった。どうやらかつては高い位にいたんじゃないかだとか、外の国から逃げてきただとか、疑り深い目をしているだとか、そういった噂は少なからずあったものの、親しい者はなかった。葬儀は町内会が営んだ。
 それからさらに数日して、妙な噂が少しばかり流れた。祭が終わった日の夜中、人々は片付けを終えるとそれぞれの自宅に戻って祝いの席についていたものの、誰かがふと細い通りを歩いていたという。その住民は、仮面をつけた人物が病死した者の邸宅の窓から出てくるのを見たと語る。仮面は薄暗い中で黄色っぽく見えたとも。あまりにも出来すぎた話だったので、それを聞いた街の人々は酔っていたのだろうとも笑ったし、あるいは死神だったのかもしれないと住民にお祓いを勧めた。その後死神の姿を見かけたという話は全くなく、噂話はたちまち消えた。


「全て去ったもの、今生きているもの、名前のあったものぜんぶ」
 彼女は呟きながら旅路を歩いていた。あの、美しいと思った横顔は今日も全てに祈るのだろうか。それが無垢なものであっても、罪人であったとしても。