晴れの日 / ダリル

2023/01/01

20_rikka


 大人が勢いをつければ飛び越えられそうな幅の小川の近くで、男は寝そべっていた。背の低い草が生えている地面の上に古びた毛布を敷き、両手を頭の後ろで組んでは穏やかな陽の光を浴びての昼寝だった。
 男の隣には大型のバイクが停めてあった。座席の後部には積荷が重なっており、彼が長い間移動をし続けていることが伺える。車体には細かい傷はあるものの、ピカピカに磨かれていた。バイク磨きに使われた、よれよれの布は座席に引っ掛けたままだ。それもまた、長旅の証拠だろう。
 男が寝そべっている場所から上へとなだらかな坂になっていて、そこから道が伸びている。延々と低い草の生えた土地が広がっていて、街はもう少し先にあることは地図で確認できた。道を挟んで反対側の土地も雑草が生えているものの、ところどころ禿げている。男が先程ちらりと目にした限りでは、朽ちた木製の柵なども適当に空からまぶしたように点在していた。馬や羊でも飼育していた土地なのだろうが、今はその姿も見えない。この先の街で生業にしていた者でもあったのだろうか。
 男は自分の斜め上から聞こえてくる談笑と足音にぱちりと目を開けた。腰に下げた大振りの銃にそっと手を当てて、ゆっくりと体を起こして声のする方へと視線を向ける。
「どうしてレモンパイなんて持ってきたの? ピクニックじゃないって」
「でも、外で食べたらきっといいかなって思ったんだもの」
 真っ先に聞こえて来たのは、少女らしき声と声変わりもしていない子供の声だった。もう、と女の方が呆れたようにこぼす。
「用事が済んだら、すぐに家に帰るのよ。やることがたくさんあるのに」
「まぁまぁ、いいじゃないか。パイくらい、食べたって……」
「パパはいっつも甘いんだ」
 介入して来た男の声に、少女はむっつりとして言う。他にもくすくすと笑い合う声が、青空の下で朗らかに響いている。家族だろうか、と男は銃に添えていた手を自然と離していた。足音は近づいて来て、とうとう男のすぐ上を通過していこうとした。ひょこっと顔を出したのは、先程レモンパイを持って来たという少年だろうか。新品ではなさそうだが、綺麗なシャツに蝶ネクタイを付け、寝癖が小さな角のように立っている。男と視線が合った少年は、きょとんとしていたものの、黒く磨かれた機械を見つけてにこりとした。
「パパー! 見て、かっこいい!」
「こらこら」
 そう諌めながらも少年の父親も顔を覗かせる。貫禄も感じる声とは裏腹に、見た目は若い。このあたりののんびりとした陽を浴びて焼けた肌は、彼の性分も穏やかなものにしたように見て取れる。父親もまた、季節には少々不釣り合いな厚手のコートを羽織り、帽子を被っていた。肩には黒い大きな鞄を掛けていて、汗ばんだ額を拭くためか、もう片方にはハンカチを持ったままだ。
「これは失礼」
 父親は笑顔を保ちつつ、帽子を取って挨拶をした。
「いや、俺も少年時代は車が大好きだったんでね」
 男はにやりとして答え、地面に敷いたままの毛布を掴んだ。そのまま積荷の上にくくりつける。
「見てもいい?」
 少年はバイクと父親を交互に見やる。
「だめ、日が暮れちゃうでしょ」
 先程から少年を叱っていた少女が顔を出す。十代前半くらいの、もう大人の仲間入りをしてみせたと言いたげに顎をつんと上に向けた少女だった。淡い黄色のワンピースを着ており、頭には花飾りのついたカチューシャを乗せている。弟を叱ってみせたものの、男の方は一瞥しただけで父親の影に隠れようとしていた。
 その親子の他に、まだ三人が連れ添っていた。一人は父親の隣を歩いていた、同じくらいの年代の女だ。シンプルな黒いドレスを着ており、夫の肩越しに男を確認しただけでそれ以上は関心を示していなかった。もう二人はまた若い男女だった。女はレースのついた白いドレスを、男はグレーがかったベストを着て、片手に同じ色合いのジャケットを持っていた。
「なんだか、めでたいイベントみたいだな」
 男が言うと、父親が「えぇ」と立ち止まって頷いた。少女が父親のジャケットを引っ張るのを、母親がそっとその手を掴んでやめさせた。
「娘が結婚をしましてね、記念に写真を撮るんですよ。」
「そりゃいい。すぐ近くなら、荷物運びでも手伝おうか。重たそうだぜ」
「おや、良い巡り合わせですな」
 父親は嬉々として申し出を受け入れようとしたが、今度は母親の方が怪訝な顔をして小声で何かを言う。それもそうだ、と男は内心思う。こんなところに一人で寝っ転がっていて、しかもこんな物騒な銃を持っている男の申し出をあっさりと受け入れるお人好しさには、妻も手を焼いているだろう。とはいえ、男も今まで延々と一人で道を走らせていた退屈さを紛らわせたいという思いもあり、バイクを押しながら緩やかな坂を上がった。
「ダリルだ。根無し草でね、あちこち旅して回っている」
 よろしく、とダリルは母親の後ろに隠れた少女にも言う。
「ご丁寧に、我々は……」
「歩きながらにしようぜ、花嫁を待たせるっていうのは良くないからな」
 父親の言葉を遮って、ダリルは後ろで立っていた白いドレスに微笑みかける。花嫁はレース生地のヴェールをかけており、ほっそりとした輪郭が浮かんでいた。
「それはごもっともです」
 笑いながら父親は頷き、荷物はダリルのバイクの積荷の上に手早く重ねて固定した。父親を先頭にして、ダリルはその一歩後ろをついていく。レモンパイの入ったバスケットを抱えながら、少年はバイクの周りをうろうろとしては手を伸ばそうとするのを素早く少女が「だめ」と叱る。
「どうして、旅をなさっているの」
 先程までは控えめな印象だった母親が興味あり気に問う。
「これといった理由はないな。軍を出てからは、ずっとこんな感じだ」
「従軍経験があるんですね。僕は補給隊でした」
 後ろを歩いていた花婿が、人懐こそうな表情で話をつなげる。ダリルはその青年をしげしげと眺める。落ち着いた雰囲気で、どことなく知的な印象があった。
「大学で招集されたクチかい?」
「えぇ。よくわかりましたね」
「賢そうに見えたからな」
「そうなんです。実に頭のいい青年でして。ようやく農場を新たに始めるにあたって、彼の経営学に関する知識は非常に頼りにしているんです。あ、こっちです」
 会話に割って入った父親は、坂の左手側、ダリルが寝そべっていたのとは反対側の土手を降りていく。先に少年が歓喜の叫び声を上げながら駆け降りていき、それを追いかけるように少女もスカートが広がるのを気にも留めずに走る。低く、弱った雑草ばかりの野原。剥き出しになった土と雑草のにおいが穏やかな風に運ばれている。朽ちた柵の前で少年が飛び跳ねる。
「ノートリガン農場、ノートリガン農場!」
 汽車の運転手が到着駅を読み上げるような言い方で少年の声が響く。
「ところで、旅の道中の資金はどのように? 積荷は何か商売でも?」
 父親の屈託のない質問に、ダリルは口元をひくりと動かした。純粋なのか、それとも探りを入れているのかがわかりにくいところが厄介だ。
「行く先々の復興隊の手伝いをして日銭を稼いだり、あとは、占いとかをやったりね」
 酒場で賭けのポーカーをやったりだのは言わないでおこう、とダリルは内心呟く。
「占い、ですか」
 母親が気の抜けた表情で繰り返す。
「まさか、占星術士、だったんですか?」
 花婿が恐る恐る尋ねる。おいおい、と茶化すようにダリルは肩を竦めた。
「そりゃ、どうとも言えないだろ。だからってあんたを呪うだなんて馬鹿なことはしねえから安心しろ」
 そもそも占星術士は絶滅危惧種だし、彼らはもっぱら「限りなく近い未来」を見ることに長けていて、人々が恐れるような呪術師の分類には入るものの、呪うことはできない。軍に所属していたときにはよく耳にすることだが、花婿にとっては聞き馴染みのない話だったのだろう。
「なんだったら、新婚二人の未来でも占ってやろうか?」
 ダリルは終始黙りこくっている花嫁のヴェールへと振り返る。花嫁は首を引っ込めているような俯き加減で、花婿に時折心配されながら歩いていて、占いの話にも微塵も興味が無さそうだった。
「悪い結果だったら嫌ですわ」
「なに、そのときは信じたいように言葉を掻い摘めばよいだけのこと」
 眉をひそめる母親に、父親は声を上げて豪快に笑う。違いない、とダリルも笑みを浮かべた。
 一行が朽ちた柵の前に近付くと、少女は思い出したようにぱっと走り出して姉のドレスの裾をうやうやしく掴んだ。少年の方はダリルに柵の一部を何度も指差してみせた。
「ここ、新しく作るんだ。僕が柵を作るの。水色と黄緑のペンキをね」
 よく見るとうっすらと「ノートリガン」という文字が黒ずんだ木の奥から滲んでいる。
「柵には何が入るんだ?」
 ダリルは積荷から預かっていた荷物を下ろして父親に渡す。
「馬と羊、あとね、鶏も飼うの」
「戦争でどれも持っていかれてしまってね、ようやくですよ」
 父親はめげた様子もなく話しながら、荷物を解いた。カメラが一式入っていて、三脚を組み立て始める。母親が少年と少女のそれぞれ乱れた髪や服装を直そうと手を出している間に、ダリルは上着を引っ張られて振り返る。遠慮がちのように見えてしっかりと力の入った指で花嫁が立っていた。
「何か?」
「占いって、本当ですか?」
 囁くような声だった。
「保証はできないけど。……旦那のことで心配事が?」
 ダリルはちらりと青年を横目に見る。カメラの組み立てを手伝っているが、隙間を縫っては視線を向けているのがわかりやすい。花嫁は押し黙っている。
「もしかして、あんたはあのインテリな旦那が、自分の家の土地目当てに結婚したと思っていて、あんたは何かしらの事情があって結婚を受けているが……何か不安要素がある、違うか?」
「本当に、占い師なんですか?」
「違ったか?」
「いえ、その通りです」
 ダリルは「ふーむ」とわざとらしく腕組みをし、また少し生え始めた顎の無精髭を爪で引っ掻く。そしてしげしげとヴェールを眺める。
「問題はヴェールの下ってわけだ」
 と、わざと大きな声で言う。
「準備できたよ」
 早足でやってきた花婿が花嫁に優しく言う。ダリルはぴゅうと、軽快な口笛を鳴らした。
「シャッターを押してやるよ。この位置でいいのか」
 カメラを調整していた父親に向かってダリルは声をかける。父親はまたしても嬉々としてシャッターをダリルに任せて、自分は花嫁の斜め後ろに立つ。花嫁と花婿を真ん中に、家族がにこやかに立っている。ダリルは念の為にとレンズ越しに彼らを見る。花嫁のヴェールがまだ下ろされたままだった。
「花嫁さん、顔が見えないぜ」
 すると、全員が今更思い出したと笑いながら彼女の顔を覗き込む。花嫁は躊躇うように一歩下がった。母親が一同に声をかけ、花婿に何かを言う。全員が二人に注目したまま、花婿はヴェールを両手でゆっくりと持ち上げる。花嫁は俯いていたが、その理由をダリルはようやくその目で確認した。顔の右半分にあった、火傷と切り傷の跡。花嫁が何かを言おうとしたものの、花婿はにこにことしている。その表情を見てか、花嫁の方は口をつぐんだ。
 ぱしゃ、とフラッシュが焚かれた。
「あ、わり。間違って押しちまった」
 ダリルはへらりと笑い、もう一度並ぶようにと手で促した。一同は気を取り直してとカメラに笑みを向ける。撮るぞー、という間延びした声の後に再び重たいフラッシュの音。
「いやぁ、助かりました」
 父親の言葉を合図に、それぞれが動き出す。少年はバスケットの上に置いた布を取って、レモンパイをかじり、もう一つを姉たちに渡そうとしている。
「なに、お安い御用さ」
「次の滞在先は、この先の街ですかな?」
「一応、そのつもりだけど」
「それなら是非、うちにも寄って行ってください。大したもてなしも出来ないでしょうが」
「申し出はありがたいが、新婚の家で世話になるほど無粋にもなれねぇな。 どうしてもって言うんだったら、街で酒が飲める場所にいるから、そこで一杯付き合ってもらうぜ」
「良いお誘いですな。では、後ほど。街に入って右手にある青い看板の酒場が手頃ですよ」
「そりゃいいこと聞いた」
 帰りは先に向かっているからとダリルはバイクを引く。道を上がったところで車体に跨り、そうだ、と思い返したように花嫁の方を見る。
「占いの結果を教えてやるよ。あんたの心配事はまったくもって無用。逆にその花婿は結構重たいから気をつけろよ」
 それを聞いた父親はきょとんとし、母親はぎょっとして二人を見る。花嫁は呆気に取られていたものの、花婿を見て頬を赤らめた。ダリルはその光景を見て満足したように頷くと地面を蹴った。うなりを上げて走るバイクを追いかけるように、パイをバスケットに放り投げて少年が走り、立ち止まっては大きく手を振っていた。カスタードクリームと粉砂糖を口の周りにべったりとつけて。一家の姿はすぐに小さな影になり、ダリルは目を細めた。
 いい天気だな、とありきたりなことを思った。