八歳のとき、初めて家出をした。
その日も両親は喧嘩をしていた。喧嘩の理由は知らないし、どうでもよかった。いつまで経っても、壁に叩きつけられた物が壊れる音と怒鳴り声が絶えないから、玄関から堂々と出た。
今になって、少しあのときの心情を表せる。僕は期待していたのだ。僕が家にいないことに気付いたどちらかが、はたと口を閉ざし、慌てて僕を探し出してくれるんじゃないかと。そして、近くの路地で膝を抱えている僕を叱りながらも、抱きしめて、もう喧嘩なんてしないから帰って来て、と言ってくれることを。
残念ながらそれは、昔どこかで見たフィクションによる妄想だ。二日ほど経過して、お腹が空いて仕方がなかったから、僕はこっそり家に入って戸棚のシリアルを食べた。父はおらず、散らかった部屋で母が気怠げに洗濯物を畳んでいた。投げつけられてどこか欠けてしまった目覚まし時計が、死んだ虫みたいにひっくり返っていた。それからすぐにまた喧嘩は始まる。原因なんて、ブロックのおもちゃをそこらじゅうにひっくり返した時みたいに落ちているものだ。あの家の火種の大抵は、お金がないことと将来もないこと。なんだってあの二人は結婚なんてものをして、僕なんて子供を作ったのか、甚だ疑問だ。
気がつけば、僕は家にいるよりも外にいる時間の方が長くなって、だんだん家にも戻らなくなった。その間に僕を探している人がいたという話も、全く聞かなかった。家にいなくてはならない、と思っていたのはその時の僕だけだ。以来、何年も親という存在には会っていない。僕の代わりに誰か別な子どもがリビングでシリアルを食べていても、きっと気付きはしないだろう。顔を突き合わせれば嫌味と暴言を交わすことしかない二人の食卓には、きっと憎むべき相手しか存在していないんだ。いや、もしかしたら、今はもう決着がついているかもしれない。
時間だけが余っていて、お腹も空かせた僕が居着いたのは、教会の慈善事業でも、路上のボランティアの炊き出しでもなかった。裏通りでどこからかパンやお菓子を持ってきた子供と、それに惹きつけられて自然と集まった子供たちの集団の中だった。群がる子供たちに行き渡るほどのパンの出どころなんか、聞く暇もなかった。僕より少しだけ年上なはずの子どもは、やけに大人びているようにも見えた。余裕たっぷりにどこか気怠げに、「これ食えよ」と、乾いたパンを半分に割って、大きめの方を僕に差し出した。
今も彼の名前は思い出せない。彼は痩せていたけれど、しっかりした大人になる途中だった。ぶかぶかのブーツを引きずるようにして歩いていたのが、やけに印象に残っている。靴下は左右柄も丈も違うものを履いていて、片方からくたびれた青がちらりと見えた。
路上を歩く彼の周りには、いつも何人か取り巻きの子どもたちがくっついていて、ぞろぞろと羊の群れみたいだった。はたから見れば僕もそのうちの一人だった。彼はふらりと姿を現すとビニールバッグにいっぱいのパンやお菓子を配って歩く。そして、子どもたちを警棒で追い立てることに夢中な警官たちがやってくるまで、意味もなく歌って騒いだりする。あの警官たちの多くは、もともと壁の外側、ガーデンで偉くなるためにやって来るのだけれど、それまでは僕たちや路上で寝ている人たちを警棒で叩く仕事をしているんだって、彼は言っていたっけ。だから僕たちは精一杯あいつらで楽しむんだ、と。
彼はなんでも知っているように見えた。大人だって知らないことを知っていて、それを僕たちにこっそり教えてくれているんだと。今にしてみれば荒唐無稽なことだ。例えばウォードには本当は王族がいて、いつかガーデンに復讐するための戦争の準備をしているとか、彼はそんな王族の血を引いているとか、そんな物語を本気で話していて、僕たちは本気で信じていた。真実を知っていて、影の巨悪のために備える将来の兵士になるんだ、なんて。僕たちの集団は特定の名前を持つことはしなかった。あえて言うなれば、『子どもたち』だった。軍団の名前は、いつか影の組織と戦うためにとっておいた。次第に大人たちも僕たちをそれを名前として呼ぶようになった。
僕は集団の中でも目立たない方だったし、小さいほうだった。でも、彼の役に立ちたいという気持ちばかりは人一倍強かった。小さいリビングで透明人間になっていた子どもにとって、自分を認識してくれる年上の存在はとても大きかった、ということなのだろう。僕は僕なりに出来ることをやってみることにした。幸いなことに、僕は集団の中でも文字の読み書きや計算が得意な方だった。だから、落ちている情報はなんでも拾い集めて彼に渡していた。僕が忠実な手下になることを確信した彼は、僕を呼び出した。きっと勲章か、あるいは階級でももらえるのだろうと僕は期待していたのだけれど、そんな心ときめくものではなかった。
薄暗くて、寂れた建物の一室。埃っぽくて、窓は締め切ってそのままにしてしまったような部屋だった。でも、そこに不釣り合いなほど立派な四角い箱が置いてあった。僕はその箱に目を奪われていて、部屋に強面の大人が何人も、僕と彼を囲っていることに気がつかないでいた。画面のくっついた四角い箱を、テレビに似たそれをしげしげと眺めていると、大人たちは僕にいくつか質問をした。どれも、僕が彼らにとって役に立つかを測るものだった。僕は大人たちのお眼鏡にあったらしくて、その日から僕は部屋に置いてある四角い箱と向かい合って、小さいキーをカチカチとやる『仕事』を得た。
やっていたことは、有り体に言えば詐欺だった。誰かになりすまして、お金を振り込んでもらうものとか、偽のインターネットサイトを作って、そこにアクセスしたものから情報を抜き取ることとか。あるいは、どこか鍵のかかった場所に入ってみたり。はじめのうちはかなりスリリングなゲームという感覚だったけれど、すぐに飽きてしまった。その一方で、失敗することは許されていなかった。あの強面の人たちが、何か失態を犯した同じ大人をむごたらしいほどに殴りつけているのを、僕は同じ部屋で見たことがあるからだ。
彼のことも、だんだんと大人に見えなくなっていた。本当は、誰よりも大人に近づいていたはずなのに、初めて出会ったときに抱いた印象は消えていた。強面たちの中に混ざって、下手に気を遣うような愛想笑いを浮かべて、会釈みたいなひょこひょこした動きをする。初めてそれを見たとき、僕はすっかり幻滅、というよりも傷ついた。王族の血を引いたいつかの大将の話が、まるきり嘘だという現実も突きつけられた。
画面の向こう側の知らぬ誰かを騙して得たお金で、彼は僕とビニールバッグいっぱいのパンとお菓子を買って、僕たちを待つ小さな『子どもたち』に配る。そして、彼はなんてことない顔をして冒険譚を披露する。もったいぶったふりをして、続きをせがむ子どもたちに向かって口の片方をにっとあげた笑みを見せる。これらのパンやお菓子は、厳しい訓練の果てに手に入れた兵糧でも、悪徳商売人から盗み出したものでもなくて、ただ誰かを騙して、僕たちは傷一つ作ることなく得たお金。僕は彼の近くをあまり歩かなくなったし、彼の片方にしかない青い靴下も、もう視界に入らなくなっていた。
あの窓のない部屋に座っていく時間が長くなるにつれて、息が詰まることに気がついたのは間も無くのことだった。暴言と汚い言葉が僕の頭越しに飛び交って、僕は古いパソコンの前に座って。誰かが騙されてお金を振り込むのをぼんやりと待っている。リビングでシリアルを食べていたときの僕と、何も変わっていないことに気付いてしまった。変わっていないのならばそれまでなのだろうけれど、頭の中はもっとぐちゃぐちゃになっていた。何も腹が立つこともないのに、パソコンの画面を叩き割って叫びたくなる衝動を、爪を噛んでどうにか堪えていた。ただ数年先に生まれてきたってだけで、暴力で人を服従させ、視野の狭い知識をひけらかす同室の連中を見下して、嫌悪していた。けれども殴られるのは嫌なので、目が合わないように背中を丸めた。そんなことしか出来ない自分にも、無性に腹が立っていた。
帰りたい、とふとそんな言葉が脳裏をよぎった。帰る場所などとうにないのに、怒鳴り合う両親のことが恋しかったわけでもないのに、記憶の片隅に転がっている微かなあたたかい思い出をどうにかかき集めようとしていた。味気ないシリアル。そういえば、僕がその味を好きだったと、親が勝手に思い込んで買ってきたやつだった。僕は別に好きでもなんでもなかったのに、うん、と頷いた後にほっとしたような親の顔を、ずいぶん後になって思い出してしまった。机に突っ伏して眠ったふりをして、僕は頭をぐしゃぐしゃに掴んで、唇を噛んだ。かち割ってしまいたかったのは、パソコンの画面じゃなくて、僕の頭だ。
結局、僕は耐えられなくて、逃げ出した。彼らがパソコンの上でやっていた商売は全部だめにした上で、こっそり警察にも通報した。追いかけられることとか、見つかったら始末される怖さは当然あった。だから、必死に、ただ遠くを目指して走った。鳴ってもいないサイレンが耳元でがんがんに響いていた。眠っている間に奴らが近付いてくるんじゃないかって、しばらく座ることも出来なかった。
気がつくと日は灰色の雲に空が覆われていて、雨のにおいがあった。走り疲れて、あてもなくただ歩いていたら、ぽつぽつと降り始めてはまもなく地面に弾く勢いを強める。右足のスニーカーの底が剥がれかかっていて、すぐに靴下までずぶ濡れになった。ジーンズの裾は雨を吸い、足はいっそう重たくなっていた。ぬかるんだ道に、落ちていたゴミに躓きそうになる。足がもつれて立ち止まって見渡すと、ゴミ捨て場あたりにいた。
ウォードの中にある、大きなゴミ捨て場。壁の外で出たゴミを、ぶちまけるためだけの場所で、砂漠のようにじわじわと広がっている。何度か遠目で見たこともあったけれど、いざその近くに立ってみると、雨の匂いとまざって、腐った油のような臭いが鼻をついた。誰かがゴミ漁りをしているけれども、強い雨のせいか立っている影はまばらで、煙が上がっているみたいだった。
遠くで、雨音に紛れてサイレンの音が聞こえる。音のする方を向いてみたら、あったのは立っている小さな人影で、響いているのは大きく開けた口から放たれた声だった。泣いているというよりは、叫んでいる。だんだんと音が大きく聞こえてきて、頭が痛い。なのに、足は音のするほうに向かっていて、僕は発信源を見下ろしていた。
僕より頭一つ分以上に背の低い子どもだった。肩の片側がずれたシャツからは浮き上がった鎖骨。いまにもずり落ちそうなズボン。靴は履いていなくて、靴下は足首まで下がりきっている。髪は伸び、雨でぺったりと潰れている。僕を見ても、まるで見えていないのかわあわあと泣き叫び続けている。泣くなよと言っても、止まる様子はない。
泣くなよ、泣くなって。だって、泣いていたってどうにもならないじゃないか。僕は雨で張り付く、その小さい子の前髪を払った。額には大きな青あざがあった。痛いのかと尋ねると、ようやくその子が首をわずかに横に振ったような気がした。
帰りたい?
僕が再び尋ねると、その子は僕を捉えた。肩を揺らしながら、しゃっくりをあげて何かを言おうとしている。僕はとたんに雨に押し潰されそうな感覚がして、その場に膝をついた。帰る場所なんてない。なのに、帰りたい。透明人間に、なにもできない子供でいたくないと思っていたはずなのに、結局僕はなにも手にできなかった。
このまま、僕はもう少し背が伸びて大人になる。独りのままで、このウォードでは決して珍しくない、名前のない、ただ生きているだけの何かになって、いつかそのまま骨になって、土になる。いや、ここではゴミなのかも。そんな考えが押し寄せてきて、途端に寒さを覚えた。声を上げて誰かが泣いている。そう、あの子。雨は容赦無く降り続いていて、虹が差し込んでくれる気配なんてどこにもない。けれど、目の前にいた子は僕の頭の上に手を置いた。優しく撫でる、なんて手つきではなくて、遠慮なくべたべたと手のひらを押し付けて。すっかり冷えた手で、でも、たしかに生きている人の手だった。僕は喉の奥から叫んだ。誰の目も気にしないで、苛立ちなのかもわからない感情を吐き出しながら。みっともなく叫び続けて、声はがらがらになった。雨は止まず、しばらくしてから立ち上がって、その子の手を取った。何度か咳払いをして、鼻のつまった声で僕は名乗った。
「僕、ダン」
痩せたその子は、しばらくしてから、「テディ」と言った。
雨よけのために、僕たちは近くにあった、使われていない建物の庇のしたで僕たちは並んで座った。それからそこを生活の場所にした。ゴミ捨て場がもう少し小さかったころ、まだ人が居たであろう区画には、もぬけの殻になった建物がいくつかあった。人が住み着いていることもあったけれど、警察官たちに見つかればサンドバッグにされることもしばしばあると聞いた。
一緒に行動してすぐに気付いたことだけれど、テディはろくに話すことも出来なければ、自分が思った通りにいかなかったり、気分じゃないことがあれば、泣きじゃくったり、怒って手を上げることがあって、普通に日々を過ごすことだってままならないことだってあった。当然腹も立つので、何度か置いていってやろうかともよぎったけれど、結局引っ張ってでも連れて行った。多分、意地だったんだ。それで置いていったら、僕の負けみたいで。
持ち逃げしたお金が底をつき始めたから、何か仕事をする必要があった。そのときにはすっかり僕も背丈があったから、どうにかすれば稼ぎは取れるだろうとも思っていた。時折街中に出て、雇い手を探してみるけれどなかなか見つからない。その視界の隅で、路上で呆然と立っている子供の視線を感じた。ビニールバッグにパンをたくさん詰め込んでいたあの頃が、ずいぶんと昔のことようだった。僕がいた、あの窓のない部屋の連中たちが追って来る気配はなかった。噂では、マフィアか何かの争いに巻き込まれて潰れたか、離散したという。
僕は、今度こそ僕たちのための場所を作りたかった。漠然と、そう思っていた。子どもであるせいで、大人に利用されていることに目をつむって、大人になった気の人間にはなりたくなかった。誰にも利用されない、『子どもたち』の場所が必要だった。
思いついたのは、情報を商売道具にすることだった。前は誰かを騙すためだけに使っていたものを、もう少しまともに使えないか。小さい画面の向こうの世界には、遠くの場所と繋がれる方法がある。ウォードでそれが出来る人間はそう多くないはずだ。やろう、と決めてからすぐにとりかかった。適当な仕事で日銭を稼ぎながら、空いた時間で機材をかき集めた。ジャンク品を売っている露天商から買うこともあれば、ゴミ捨て場から拾って来ることもあった。テディはゴミ捨て場で遊ぶのが好きみたいで、気に入ったものがあれば絶対に持って帰った。置物にしかならないような物もあれば、たまに、機材のパーツになりそうなものまで手にしていたときには驚かされた。僕が譲ってくれないかと頼むと、へらへらと笑って僕の手のひらに楽しげに乗せた。
初めて売った情報は、監視カメラの映像だった。ウォードで日雇いのラベル貼りの軽作業をしていた作業員の一人が、金庫から金を盗んだと言いがかりをつけられて、給料を払ってもらえなかった。でも、金庫を保管している部屋に監視カメラがあったことに気がつかなかったおまぬけさんは、そこから金を持ち出していた。おまぬけさんは、作業員たちの雇い主の息子だった。ついでに僕は、おまぬけさんを街の監視カメラで探し当てた。新婚なのに浮気を重ねていた証拠もばっちり取ることができて、罪を被せられた彼も、未払いになっていた給料に上乗せした額を受け取った。僕はその中から少しを依頼料として受け取った。その金で、たくさん食べるものを買って、路上で虚な目をしている子たちに渡した。彼らは敵意を含んだ目をしていた。後から出される強烈な見返りを警戒して。
何が目的だと尋ねる子に、僕は、ただそうしたかっただけ、と肩をすくめる。最初はパンを投げ返されたり、掴みかかられそうになったこともあったけれど、次第に僕とテディのところに顔を出して、何か手伝おうかと言ってきた子も現れた。明確な見返りは求めなかった。でも、もし知っていることがあったら教えて欲しいと言うと、彼らの多くが情報収集に行ってくれた。大人はべらべらと子供に話をするのが好きだ。持って来るたくさんのゴシップ話は、依頼をこなすにもかなり役立った。それが、今の『子どもたち』の姿となった。
ゴムボールが壁に跳ね返って、取り損ねた誰かがわっと声をあげた。それから後に響く笑い声。それを少し離れたところで聞きながら、僕はパソコンの画面に向かっていた。あの厄介なバートが持ち込んできた依頼を、つまりは、アーチという人の依頼をこなすために。
後ろから出来るだけ足音を消して近付いてきたテディが、僕の顔を驚かせるために覗き込んで、にこりとする。ココアはいるか、と彼なりの言葉で尋ねてくる。僕が頷くと、決まりきっているのに、それでも嬉しそうに足音を大きくする。僕は手を止めて、息を吐き出した。ややあってから、トレイにカップを乗せたテディが、そろりそろりと慎重な足取りで近付いてくる。どうやら、なみなみに注いでしまったらしい、表面上で波打つココアはいくらかトレイに溢れて、テディは大きな声をあげた。これで気分を損ねれば、そのままトレイを地面に叩きつけるだろう。けれど、彼は口をぎゅっと萎ませて、肩を張った。丁寧すぎるほど丁寧にトレイを置く。
「ありがとう」
にこりと微笑んだテディを、ゴムボールで遊んでいた集団が呼んだ。一緒に遊ぼうと。テディは大きく返事をして輪の中に入っていった。テディは子どもたちの集団から、頭ひとつ大きかった。僕ははしゃぐ彼らを遠目に眺めた。当然のことだけれども、テディもいつかは大人になる。いや、いつか、ではない、かなり近い未来に。それに、僕も。僕たちにとって、未来に希望はない。この街の子どもの多くが、きっとそう思っている。未来、聞こえはいいけれど、そんなもの、ただ時の経過だ。ただ、僕が『子ども』でなくなったとしても、この場所に、テディたちと一緒に居られればいいとは思っている。それは希望、なんて格好つけた言い方は少し気恥ずかしい。それでも、テディも、それから今ここに居る子たちも、そう同じことを思っていたと、いつか今が過去になったときに覚えていてくれたら、少し、嬉しい。