Chapter0-2

2024/03/09

90_Extra

シリルとそのボス、ジーンとの話。少しだけ本編ネタバレしていますが、未読でも大丈夫な内容です。

 「暴力」というのは、僕の世界では有効な手段だった。
 壁で取り囲まれたこのウォードには、親のいない子どもがたくさんいる。
 そういう子どもたちは、同じような年頃の子たちと集団になって生きるか、大人に飼われるか、あるいは運良く孤児院に入れるか。あるいは、誰にも知られずに飢えて倒れるか。
 僕の親が僕を孤児院に入れたのは、せめてもの慈悲だったのかもしれないし、もしくは孤児院を出入りする大人たちへの労働力の提供を意図していたのか。見返りに報酬を得る親がいた、それは孤児院で実際に目にした光景の一つだった。
 とはいえ、路上で寒さに震えることもなかったし、一応食事も与えられていたので、置かれた境遇の中では良い方だったんだと思う。

 僕は鏡の前に立って、自分の顔を観察してみる。あのときより背はどんどん伸びたけれど、顔は十代後半に見えないこともないと言われる。顔と威厳が重要なんだ、と若は僕を笑っていたけれど、若も大概だと思う。僕より背は低いし、顔立ちだって年齢相応だもの。自分のことは置いておいて、もっとそれらしくなれと渡された、度の入っていないサングラスをかける。

 子供の頃は背も小さかった。同じ年頃の子たちの中でも痩せて、背もなかなか伸びなかった。だから格好の的だった。なんとなく、年長者の言うことは絶対の雰囲気が子どもたちの中でもあって、ほんの数年先に生まれただけの子どもたちが気に入らない年少者を陰で叩いたり、小間使いにしていた。でも、そういう子どもたちも、大人の言うことはそれなりに聞いていた。その大人っていうのは、孤児院で普段僕たちの面倒を見る人たちではなくて、時折やってくる大柄な大人たちだった。彼らはチョコレートやキャンディを餌に、仕事をさせた。今にしてわかった話だけれど、彼らは今の僕と同じような、「組織」の人間だった。孤児院の子どもたちは彼らにとって良い駒だった。大人ほどは警戒されないから、敵対組織やターゲットの偵察などにも利用されたし、金を与えなくとも喜んで雑用を引き受けたから。それで、お菓子欲しさに大人たちにとって良い子になる年長者は、大人の真似をして年少者に乱暴な言葉を言い、手を上げた。そうすれば早く大人になれると思っていたのだろう。
 当然殴られれば痛いので、嫌だとは思った。言ったところで止めてもらえるわけではない。言った時には暴力は倍になった。わけのわからない暴言を吐きながら暴力を振るう年長者たちの顔はとても楽しそうで、興奮で歪んでいた。そんなにわくわくさせられるものなのだろうか。疑問に思ったある日、ふと思って握った拳を前に突き出した。手は年長者の頬にめり込んで、後ろに吹っ飛んだ。倒れた子どもの口から奥歯がぽろっと落ちた。ぎゃーっと突然響き渡る悲鳴をよそに、そうか、と僕は気付いた。この手段は彼らのものだけではない。僕にもあるのだと。
 それから僕は暴力を振るう年長者を全員殴った。馬乗りになってシャツの襟元を掴み、何度もグーに握った手を振り下ろした。鼻血を出し、口の中を真っ赤にした彼らは泣きながら謝った。楽しくはなかった。どうして年長者はこんなことをゲームのように楽しめたのか不思議だった。でも、こうしたら誰も僕を殴らなくなった。施設の大人たちは僕を叱ったけれど、普段ほどは怒っていなかった。
 その後すぐ、仕事を押し付けてくる大人たちが年長者たちを殴った年少者は誰だと探していた気がするけれど、視界に入らないように逃げていた。僕はチョコレートもキャンディも欲しくなかった。誰かがうっかり僕だと告げても、痩せっぽっちの子どもが出来るわけがないと思ってくれたんだろう。
 ただただ、退屈な日々だった。あと数年すれば嫌でも孤児院を出なければならないけれど、その時に自分が何をしたいのかもわからなかった。日々はゆっくりと円を描くように続いていて、何をしても変わらないのだと思っていた。僕はずっと十五歳くらいで、孤児院の大人たちのようになる未来なんて描けなかった。
 かつて僕を囲って殴り、奥歯が取れた年長者は自動的に「組織」の人間になって、もっと年上の人に頭を下げてへらへらとしているのを見かけた。僕もいつかはあの「組織」なんてもののために働かせられるのだろうか、と考えるのはひどくつまらなかった。それとも、大人として孤児院のおちびさんたちの面倒を見る? きっとそっちの方がうんといい。でも、やっぱりそれも十五歳の輪っかの上をぐるぐるとなぞっているだけだ。
 ある日、大人にぺこぺこと頭を下げている姿を見られたのが嫌だったのか、奥歯の取れた年長者が仲間を引き連れて僕を取り囲んだ。あのとき泣きじゃくっていたのに、どうして彼はまた挑むなんてことをしたのだろう。もう片方の奥歯も抜いて欲しかったのだろうか。
 「組織」に反抗したとして、僕は孤児院をあっという間に追い出され、「組織」は僕をみせしめにすると言った。殴られないために暴力を知ったはずだったのに、暴力はどんどん膨らんで迫って来る。とはいえ、引き返すことも出来なかった。
 「組織」が持っていた小さい事務所があった。ブラインドが下された窓が一つだけある小さい部屋に、僕は真ん中に座らされていた。すぐ後ろには鉄棒を持った大人が見張っている。窓際には中年の、事務所のリーダーを名乗る男が煙草を吸っていた。なぜ反抗したのかとか、共犯者がいないかとか聞かれたけれど、僕の答えは彼の求めているものではなかった。彼らは暴力という手段を取った。僕はそれに応じた。鉄棒を奪って、向かってくる大人たちを殴った。力任せに男の肩に鉄棒を叩きつけると、バキ、とひしゃげる。一番使える武器は拳だったけれど、流石にあの時は疲れた。自分のものか相手のものかわからない血がべっとりとついて、体は少し重たく感じた。最後の一人の胸ぐらを掴んで、力のない拳を振り下ろそうとしたとき、事務室の部屋が大きく開いた。そこに入って来たのが若、厳密に言えば彼の護衛も一緒だった。
 若はそのときも真っ白のスーツを着ていた。僕とあまり歳の変わらない、まだ子どもだったはずの若は、僕の知っている「子ども」ではなかった。よれてもいない、汚れのついていない、彼のために作られたような服を着て大人を従えて歩いていた。
「お前が相手を?」
 若が片眉を上げて、僕は黙って頷き、すでに気を失っていた男を床に放った。若はにんまりとした。
「そりゃ好都合だ」
 若ことジーン・オルテナが所属するオルテナファミリーは、ウォードを陰で支配する組織の一つだ。ウォードが建設されるころから続いている古株で、僕の孤児院の後ろ盾となっていた組織は、彼らにとっては敵対組織だった。老舗のオルテナ一派に敵うわけもない小さい組織だったんだろうけれど、最近になって人が増え、活動領域を拡大させたことでお灸を据えられるところだった。僕を孤児院の人間かと尋ねた若は、僕を敵対者としてみなすかと思えばソファに座って突然こんな話をし始めた。
「お前、どちらかの親の顔を見たことあるか?」
「ないよ」
 ふーん、と言いながら彼は僕の顔をまじまじと眺めた。
「生き別れの兄弟も?」
「いないと思う。いたら面白いなって思ったことはあるけれど」
 僕は首をすくめる。
「少なくとも、あの孤児院にはいない」
「じゃあ、お前はこれから俺の弟になれよ」
 ぎょっとした顔をしたのは、彼の後ろにいた護衛の大人たちだった。
「どうして?」
「昔親父が、俺には腹違いの兄弟がいるんだと話していたんだよな」
「はぁ」
「せっかく兄弟がいるっていうんだったら、使えそうな奴がいい」
 それはきょうだいというよりは、ただの手下じゃないかと首を傾げる。
「兄弟って、何するの」
「キャッチボールでもするか?」
 お前の投げる球なんか取れそうになさそうだけれど、と若は笑いながら言った。
「やったことないや」
「俺もない」
「なぁんだ」
 僕も少し笑った。若はすぐに答えを求めなかった。
 孤児院を出入りしていた大人たちは、まもなく姿を現さなくなった。僕や年下たちを殴っていた元・年長者たちの姿も、みんなから忘れ去られたみたいにいなくなった。
 奇妙な変化はあっという間に始まった。オルテナファミリーが孤児院の経営を持つようになった。子どもたちは仕事を振られなくなり、家庭教師が送り込まれて来て、子どもたちに勉強を教え始めた。食料だけでなく、何の報酬もなくてもたまにお菓子が届いた。孤児院の大人たちはすっかりオルテナファミリーを信頼して、周囲の事情などを進んで話したし、様子を見に来て、物資を届けにやってくる組員に食事や衣服の繕なんかを提供し始めた。小さい子どもたちは遊んでくれるおじさんが好きだった。優しい家庭教師が好きだった。全部が善意ではないのは目に見えている。院の大人たちもわかっていた。けれど、暴力や罵声に支配されるよりは、甘い餌に釣られていたほうがずっといい。僕も賛成だった。自分が殴られるのも嫌だけれど、僕の知っている人が殴られているのも嫌だ。
 ジーン・オルテナは数日して孤児院に視察の名目でやって来た。子どもたちからの歓迎をたっぷりと受けた後、僕たちは外で話をした。
「もし、僕が嫌だって言ったら、ここに送ったものを返せとか言ったりする?」
「案外情があるんだな。あんなに人をボコボコにした割に」
 若は目を大きく開いてから笑う。
「殴ってきたのは向こうだもの」
「加減を知らないんだな」
「あんまり使えないと思うよ、僕」
「運営のことはファミリーが決めている。お前のことは俺の個人的な話。そこは関係ない。……とはいえ、あの場でお前が即決しない奴でよかったと思ってる。俺たちの社会にも、変なルールがいくつかある。一度踏み込めば元の生き方には戻れない。暴力と独自の儀礼で成り立っている世界だから」
 ジーン・オルテナこと若は目を伏せて、細い銀の腕時計を一瞥した。
「君は、僕に弟になって欲しいの?」
「そうかもな」
「じゃあ、いいよ」
 あっさりとした答えに若は顔をしかめた。僕にもう一度自分たちの社会のことを説明しようとしたけれど、小難しい話になりそうだったから首を横に振った。
「兄弟にルールがあるなら聞くけど」
「本当に理解したのか?」
「うーん、あんまり。でも、楽しそうだからいいよ」
 ぐるぐると回るだけの毎日が、ようやく違う線を描きそうだった。
 若は呆れ顔をしていたけれど、僕は若の義理の「弟」になった。若は渋ったくせに、そうと決まればと僕をさっさと孤児院から若の家に連れ出した。大きくて綺麗だけれど、少し古い邸宅。護衛の人たちも出入りしていたものの、孤児院以外に居場所もない僕は邸宅の一室を割り当てられた。その部屋はずっと誰も入っていなかったのか、埃かぶっていて、椅子の脚はどれもぐらぐらしていた。でも、部屋には僕だけしかいない。泣きじゃくるおちびさんたちの叫びもないし、それに苛々する年長者たちの怒号も聞こえない。かびの臭いがして、とても静かな寝室だった。掃除を重ねて、若が手配してくれた新しいベッドはふかふかで慣れないうちは却って寝心地が悪かった。
 若の家・オルタナファミリーの一員になった僕は、以来この世界での「作法」や「礼儀」を教えられた。少し面倒なこともあったけれど、孤児院の時よりはわかりやすかったし、ためになることもたくさんあった。何より、ここの人たちといる方が退屈しなかった。

「ただいまぁ」
 若は自分の部屋で書類仕事をしていた。目を上げると「おう」と言ってから書類を脇に押しやった。
「報告を聞こうか」
「はぁい」
 オルテナファミリー配下の地域で、壁の外との繋がりを持ったとされる二人組。単純な外の繋がりって意味じゃない。僕たちの世界では、クスリや裏金の資金洗浄で使われるパイプのことを指す。ウォードにも利益のある話だと釣られて協力する人は時折いるんだけれど、若や親父さんたちの目の届くところでやるのはご法度って話だ。陽の当たらない場所での秩序、と言えば聞こえはいいかもしれないけれど面子の話でもあるって、若は教えてくれたっけ。
 ローリー・ゼケットとレズリー・オルコットの捜索および情報収集が、僕たちに課せられた命令だった。最初に疑われたのはローリーの方で、レズリーはその婚約者だから共犯の可能性を考えた程度だったのだけれど、ローリーには身寄りがなかったから、僕はレズリーの家族であるアーチボルト・オルコットを訪ねて、若の元に連れて行った。
 僕は若にそれからのことを話した。彼と一緒に若の元に連れて来られたバート、情報収集のために尋ねた先でリーダーをしていたダンのこと、アーチのアパートの下で食堂をやっている無口な店主さんが作ってくれたチーズトーストが美味しかったことまで話した。
「大体はわかった。随分楽しんできたみたいだな」
 若は柔らかい笑みを浮かべて言った。
「うん、楽しかったよ」
「そうか。もう下がっていいぞ」
 目を逸らした若は、書類仕事に戻ろうとした。もしかして、僕だけが楽しい思いをしてきたから、寂しかったのだろうか。僕の視線に気付いたのか、今度はしかめ面をされた。
「何笑ってんだ」
「いつもこんな顔だよぉ」
「ニヤついて」
「そうだ、キャッチボールでもしに行こうよ。それともチーズトースト、一緒に食べに行く?」
「どんな選択だよ」
「親父さんに、怒られた? 人の冠婚葬祭ダメにしたって」
「お前の報告でチャラに出来そうだ。そもそも俺たちだけの責任じゃないし」
「じゃあ、たまには遊びに行こうよ。僕、結構頑張ったんだけれどな」
 若は気だるそうにしばらく考えていたけれど、仕方ねえなと重たい腰を上げた。部屋を出ていくときの若の横顔は、ちょっとだけ笑っていた。