ポートレイル市の警察局の広いエントランスホールに入ると、真正面に受付があり、左手にはカフェとデリが並んでいる。そのデリのすぐ隣の壁面は、静かで厳格な雰囲気の警察局らしからぬ、明るい色と丸い字体が立体映像として浮かび上がっていた。そこには、『市民のみなさんからのメッセージ』と上に書かれ、四角い枠の中にそのメッセージが収められている。
『近隣住民のトラブルを相談したところ、とても親身に話を聞いてくださり、ありがとうございました。おかげで騒音被害も今はおさまりました』といったものや、『いつもありがとう』と子どもが描いた絵も一緒に掲載されていた。
その映像を、二人組の男が立って眺めていた。一人は長身に緑のストライプスーツを着ており、両手を頭の後ろで組んでは「へー」と、壁面の文字を見て呟いていた。もう一人は黒いスーツに、片手にデリで買ったコーヒーを持って何も言わずに目で文字を追っている。二人とも、この警察局に所属している警察官だ。
「刑事課にも来てんだ」
長身の男は一つのメッセージを指差すと、少し膝を曲げて、その文章を読み上げた。
「二月十六日、傷害事件に巻き込まれそうになった自分を助けてくださり、ありがとうございました。異分子であると言いがかりをつけられたときにはとても怖い思いをしましたが、警察の方に丁寧に対応いただき、とても安心しました。……これさ、俺行かなかったっけ?」
もう一人の方はコーヒーを飲みながら、片眉を上げた。
「よく覚えてたな」
「そりゃ覚えてるよ。俺、あのときホリーとの待ち合わせに遅れたんだから」
理由はそれか、と尋ねた方が苦笑を見せる。
「すぐに刑事課に引き取らせたからだろう」
「なんかムカつくー。高級クラブに入ろうとしたらスキャナが誤作動したとかなんとかってさ。異分子扱いするなって自分から喧嘩吹っかけて、店の人とトラブル起こして」
なぁにが怖い思いだ。長身の男は口を尖らせた。
『異分子』。それは、数十年前、この世界で存在が確認された人々。外見上の変化も特段あるわけでもないが、彼らの一部には、身体に何らかの特化した能力とその代償を背負っているる。その話ばかりが瞬く間に凶悪な印象とともに広まったために、世界中で恐れられる一方で、蔑まれる対象でもあり、あるいはもはやこの世界から『見えない者』として虐げられる。
ただ一つ、このデンバー=ランバー島を除いては。
『異分子』が人間として生活できると謳われているこの島でも、彼らは徹底的に管理されている。能力の度合いによって彼らは階級を付けられ、体にコードを刻まれ、簡単なスキャナで検知もされる。それが世界が提示した『譲歩』の一つだった。
長身の男が呼び出された先で目にしたのは、高級クラブの前で「俺は異分子なんかじゃない! いいから入れろ!」と騒ぎ立てている男と、クラブのボディーガードが落ち着いた様子で入店を断る文句を並べているといった光景だった。その光景を見た通行人からの通報だった。
その日、通報に呼び出された長身の男はげんなりした調子で、刑事課へと対応を繋いだものの、刑事課の面々が到着するまで、彼はその場に留まらなくてはならなかった。
「そもそも、俺が異分子に見えるはずがないだろう? あんな貧乏ったらしく見えるっていうのか?」
騒ぎ立てた男は長身の彼に視線をやった。彼は呆れた顔で「そーっすね」と、適当に返事をした。いまだにそんなこと言うやついるのかよ、と彼は内心毒を吐いた。俺も貧乏ったらしく見える? と言ってやろうかと思ったのだが、刑事課のサイレンが聞こえたのでさっさとその場を後にした。何より恋人との時間が一秒でも惜しかったからだ。
「なんか言われたのか?」
コーヒーを飲んでいたもう一人に指摘されて、彼は笑った。
「べっつにー」
「ノーヴェンバ」
「報告事項はちゃんとしたって、班長」
長身の男、ノーヴェンバはへらっと笑いながら言った。班長と呼ばれた方は、それ以上は言わなかったものの、目を細めた。
「……そういうのなら、刑事課にこんな枠くらい、くれてやってもいいだろ」
「そうだね。俺も、あれでお礼なんか言われても、なんか余計ムカついちゃうかも。でもさ、ほら、俺たちって見えないもんなんだなって、こういうの見ると実感しちゃうよな」
ノーヴェンバは並んでいるメッセージを一つ一つ、指で示した。そこには、二人が所属している課に向けられたものは一つとして存在しない。
そう、彼の指が示す先に、『特別捜査課』という文字はない。主に『異分子』が被害者となる刑事犯罪を取り扱うチームであり、警察組織の中で『異分子』が所属を許されている課でもある。ノーヴェンバ自身、異分子として特別捜査課に在籍している。
「残念なことに、俺たちの仕事は礼を言われることは滅多になくとも、恨み言や愚痴をぶつけられることの方が多いな」
班長の男は淡々と言った。だよねぇ、とノーヴェンバは頷いた。実際のところ、『異分子』を専門に相手にする彼らに情報提供の連絡があっても、その中には悪意に満ちたものも紛れてくるものだ。異分子の犯罪者を捕まえろ、異分子を追い出せ。そういったメッセージがあるたびに、ノーヴェンバは「暇なのかよ」とうんざりしながらゴミ箱に放り込んでいく。
「でも、巡り巡って俺たちの仕事も、ここにいる誰かにつながっていると思ってみたらどうだ? こいつ以外にでも、誰でもいいさ」
班長に促され、ノーヴェンバはうーん、と言いながら『いつもありがとう』と書かれた子どものメッセージをまじまじと見つめた。例えば、俺たちが異分子を助けるために、ある人たちには嫌われながらも、それを成し遂げたとして。もしかしたら俺の助けた人が、この子が毎日学校に途中で必ずすれ違う隣人で、その人の「おはよう、今日も行ってらっしゃい」ていう言葉で、ほんのちょっと笑顔になってるとか? ノーヴェンバは、爽やかな朝の通りでそんなやりとりをしているかもしれない二人を想像してみる。もちろん顔も名前も知らないので、適当に顔を思い浮かべる。まぁ、悪くないかもしれないけど。
「ここにいたの」
そんなふうに考えていると、声をかけられてノーヴェンバはその方を振り返った。長い銀髪を束ねた女の捜査官と、眼鏡をかけた男の捜査官が二人に向かって歩いていた。声をかけたのは、女の捜査官の方だった。
「サボっているのがバレたぞ」
班長はにやりとして、ノーヴェンバを肘で小突くと、彼は肩を竦めた。女の捜査官は咎める様子もなく、二人に言う。
「課長から連絡があったの、異分子の家に空き巣が入ったから、行って欲しいと」
「了解。休憩終わりだ、ノーヴェンバ」
班長が彼の背中を叩き、はぁい、と間延びした返事を返す。二人を呼びに来た男の捜査官は、ふと壁の立体映像に視線をやった。
「珍しいな、二人して見ていたのか」
「コーヒー飲んでるついでにな。俺たちには何もないって、こいつが拗ねてたんだ」
班長が言うと、女の捜査官が目を細めて穏やかに微笑んだ。
「お礼が欲しかったの?」
「そうじゃないけどさ。あって悪い気はしないっしょ。いっつも嬉しくないお便りじゃん」
「嬉しくないお便りだな、確かに」
声を上げて班長は笑った。
四人の捜査官たちが自分たちの執務室に戻ることが出来たのは、陽も暮れかけたころだった。ノーヴェンバは大きく伸びをした。
「あ、帰ってたんだね」
部屋に入ってきたのは、白衣を羽織った男だった。
「イガラシ、どうかしたのか?」
「大した用じゃないんだけど、受付でたまたま預かったんだ。多分、ノーヴェンバだと思うんだけれど」
「俺ぇ?」
ノーヴェンバは席を立ち、イガラシのもとに駆け寄った。彼の手にあったのは、青空色の封筒だった。それを受け取り、裏を見てみるも差出人も宛名も書かれていなかった。
「なんも書いてないけど、これ本当に俺?」
「派手なスーツを着たノーヴェンバっていう警察官なんて、君くらいしか思い浮かばないからさ。一週間前、小さい子に道案内したでしょ?」
ノーヴェンバは封筒を手にしたまま、視線を天井に向けたまま考えていたが、一呼吸置いて「あ!」と声を上げた。
「したした! 三歳くらいと、十歳ちょっとくらいの。なんか道に迷ってる感じだったから、教えてあげた。最初お兄ちゃんのほうに警戒されたからさ、俺おまわりさんだよって身分証見せた」
封筒の中には、小さな便箋が一枚折りたたんで入っていた。広げてみると、紙いっぱいにクレヨンで『あ り がと う』と書かれている。一文字一文字が違う色で書かれており、最後の文字は紙からはみ出してしまいそうだ。ノーヴェンバはそれを呆気に取られて眺めていたが、だんだんとその顔に笑みが浮かんでいた。紙面を他の捜査官たちにも見えるように、表にして見せびらかせた。
「ねぇ、見て! これ! すっげぇかわいいじゃん!」
彼の満面の笑みに、他の捜査官も「お手柄だな」、「よかったわね」と口にした。ノーヴェンバは何度もクレヨンの文字に触れてみたりした。そしてふと、にこにこしていたイガラシの顔を、ノーヴェンバはずいっと覗き込んだ。
「なに、どうかしたの」
「イガラシはさ、こういうのどうやってもないもんね」
何が言いたいのかを察した班長はデスクでくすりとした。イガラシの方は、「何が?」ときょとんとした顔で聞いた。
「だからさ、イガラシにも今度お礼の手紙書くよ。いつも検診ありがとーって。嬉しいっしょ?」
「気持ちだけで十分だよ、ノーヴェンバ」
けれども実際、自分たちの仕事も誰かの協力なしには成立しない。そして、彼らも大抵、表に出ることはなく、エントランスのお礼の手紙一覧にその名前が記載されることはない。
後日、喫煙所でたまたま鉢合わせした顔見知りの鑑識官が苦い顔をして、班長に声をかけた。
「お前、ノーヴェンバが何か企んでるのか知ってるか?」
班長は目をぱちくりしてから、声を上げて笑い、煙草を出して、こう言った。
「いいじゃないか、素直に受け取っておけよ」