名前 / ウインター

2023/05/07

20_rikka

 ウインター。
 あの男は俺をそう呼ぶ。あいつらの言葉で何を意味するのか、俺は知らないし、興味などない。きっと大した意味はないだろう。
 あいつの車は今日もよろつきながら小石を時折弾き出して、乾いた道を進んでいた。厚く真っ白な雲が流れて、澄んだ空から太陽の光が俺たちを焼いている。細くて今にも折れそうな木がぽつぽつと生えているこの道では、木陰を期待できそうにない。大きな自動車の荷台に寝そべっていれば、全身で光を受け止めることができた。じりじりと自分の皮膚が焼く熱を、荷台の荷物を覆っている布のはためいて吹く風で払おうとしている。
 ふと運転席の方を見ると、窓から右手が出ている。羽織の上着も脱いで、袖を肘のあたりまで折っていた。下手くそな鼻歌が聞こえないところ、どうやらそれなりに暑さは感じているようだ。初老の、いつもは馴れ馴れしく他人と会話をするくせに、目の奥が狐のように鋭い男でも。
 欠伸を一つ、大きく口を開けた。この車の荷台にいると、どうもそんな、くだらないことを考えている。上空に広がっている雲を見ると、そこに細長い影が左右に形をくねらせながら泳いでいる。あれは雲の中を泳いでいるのか、それとももっと上空なのか、誰もそのことは知らないが、この後雨が降ることだけはわかる。俺はそのまま目を閉じた。

 水滴が鼻先に落ちてきた。雲は灰色に変わって、ぽつぽつと雨が降り始めていた。車は止まっている。起き上がって周囲を見渡すと、家が数軒集まった場所に到着していたらしい。集落の跡地、ということだろうか。
 ばたん、と車の扉が閉まる音。あいつが長い裾の上着を羽織って出てくると、俺の方を振り返った。雲と雨の影響で、気温が急に落ちたからだろう。
「寒くないか」
 あの男はそう尋ねてくる。俺は首を横に振った。
「商売ができそうか、話をしてくる」
 俺は小さく頷いて応えると、あいつは一つの家の扉を叩いて、そこから出てきた住民に丁寧な一礼をして何かを話し始めた。この荷台に積み込んでいるものたちが、ここの人間に役立つものになるか持ちかけていく。出てきた住民は若い二人組の男女で、あいつを少し警戒していた。いい気味だ。あいつは一歩引いて、荷台を示した。俺と目が合う。それから二人組は別な建物を指さし、あいつはまた一礼してその家の方に向かった。住民が閉めようとした扉の隙間から、小さい顔が覗き込んできていた。あの家の子供だろう。父親らしき男に背中を押されて、扉は閉まった。
 雨足は強まることなく、細く降り続いていた。あいつは中年の男を連れていて、そいつは荷台を見て「ほう」と呟いた。あいつが俺に目配せをして、俺は荷台の覆いを取り払った。あるのはここまでに集めてきたがらくたの山。あいつに言わせれば、これを必要としている人間だっているらしい。
「たとえば、工具とかはどうでしょう。見るに、修理などが必要としている人は多そうですが」
 あいつは住民の男に言う。こいつが集落の頭なのだろう。それなりに上等かもしれないが、ほつれの目立つ黒い上着を着ている。
「えぇ、助かります。とはいえ……金にはあまり余裕のない者の集まりですので」
「少しばかり休む場所を提供いただければ。それと、我々は交換も引き受けています」
 あいつはにこやかに言う。集落の頭は首を掻き、それでしたらと納得したようだった。
「申し訳ないが、私は独り者でもてなす物もありません。他の住民の家で寝泊まりは頼んできますので、少々お待ちを」
「助かります。あぁ、申し遅れました。私はイヴニングスター。イヴとお呼びください。こっちは同じ商売仲間のウインターです」
 あいつは手を伸ばす。しっかり商売人らしい握手をして、中年男は俺の方を不安げにちらりと見やったので、俺は首を下に動かした。あいつから言われた通りの所作だ。それで男は踵を返した。

 集落の長が案内したのは、あいつが最初に訪ねた家だった。四人家族で、若い夫婦と子供は姉弟という。俺たちは居間に案内され、夕食を振る舞われている間、あいつは自分たちの素性をできるだけ明かした。
 自分たちは行商人であちこちを走り回っているということと、目的地は特にないということ。あいつが行商をしている途中で俺を拾ったということ。いくつかは真実だが、いくつかはこういうときに作られた物語だ。
「ここも戦乱の前でしたら、もう少し楽しんでいただけたのでしょうけれど」
 父親の方が眉を下げつつも、微笑を浮かべながら言う。あいつは愛想のいい相槌を打つ。
「もういくらか草花も生えていたんです。馬や山羊を育てて暮らしている者が多かったのですし、外れには綺麗な川も流れているので、キャンプをしにやってくる観光客や、それ目当ての移動サーカスなんかもやってきたんですよ」
「サーカス!」
 それを聞いて声を上げたのは、もう食事を終えて遊んでいた子供たちだった。
「あの子たちは、それを見る機会もありませんでしたが……」
「いずれは、そうなるでしょう」
 あいつがそう言うと、両親たちは微笑んだ。

「おにいちゃんは、がいこくの人なの?」
 物置がわりになっていた空き部屋に、簡単な寝床が用意された。そこに俺が横になろうとすると、扉の隙間から小さな姉弟が目を覗かせて言った。俺は扉を開ける。居間ではあいつと夫婦たちがまだ話し込んでいる。この先の道の状況を、世間話と共にしているはずだ。子供たちはとっくに寝かしつけられたが、抜け出してきたのだろう。俺が手招きをすると、姉弟は足音を立てないように忍び込んできて、俺の前に座った。追い出したところで、好奇心が尽きるまではつきまとってくるだろう。
「おにいちゃん、おはなしできないの?」
 暗い部屋で俺たちを照らしているのは、小さいランプが一つ。俺は自分の喉元を軽く指で叩いた。そこにあるのは、鋼鉄の首輪だ。
「どうしておはなしできなくなったの?」
 俺は首を傾げる。話せば長いことになるから。
「いたくないの?」
 今度は首を横に振る。姉弟は互いに顔を見合わせてから、もう一度俺の顔を見る。何か話したそうにしているが、俺が答えられないのでどうしようか迷っているようだ。俺は右手で何かを持って書く仕草をした。すると、小さな姉の方がぱっと思いついて、部屋のどこかからくしゃくしゃの紙と短い鉛筆を渡した。わずかな明かりをたよりに、俺は紙に絵を描いた。雨を告げる雲の中を泳ぐ、あの黒い影の姿。長い体に、小さい手と、面長な顔。流れるような髭が二本、伸びている。
「かっこいいー!」
 弟の方が身を乗り出す。姉の方に「しーっ」と人差し指を立てられて、すぐに両手で口をおおったものの、扉から大人たちがやってくる気配がないことを窺ってから、話を続けようとした。
「これ、なんていうの? どこで見たの?」
 俺は指で上をさす。もくもくとした雲を宙で描いて、その中を進んでいる。もしかしたらその上かもしれないが。
「お空の上に、こんなのがいるの?!」
 弟は興奮した様子で、俺の膝に両手をついて絵をまじまじと見つめる。すると今度は姉の方が言う。
「ねぇ、うさぎさん描いて!」
 俺は言われるがままに耳の長い生き物を描く。さっきのよりは随分簡単だが、それでも子供の方は満足したようだ。次はリスを、それから犬を、と姉弟は口々に要求してきたが、俺は飽きてきて、二人に紙と鉛筆を渡した。二人は一本の鉛筆を交代しながら、紙に自由に描き始めた。互いに描いたものが何かを当てさせる遊びが始まり、また俺に鉛筆が回ってくる。動物の絵を描くと、二人は我先に答えを口にした。
 腹這いに寝転がって笑っている二人を見ていると、何かを思い出させられる気がした。土の上で、適当な木の枝で動物の絵を描く姿……。

 もう描くことができなくなるまでに紙は埋め尽くされて、ようやく二人は眠った。片腕に一人ずつ抱えて居間に出ると、食卓の上に地図を広げて三人が話している途中だった。両親たちは腕に抱えられた子供たちを見て、はっとした表情をしていた。
「もしかして、おやすみの邪魔をしてしまっていましたか?」
 俺は首を横に振り、それぞれに子供たちを渡した。両親たちは一礼して、子供部屋に入っていった。
「お前さんは子供に好かれるな。こんなに大柄で仏頂面だというのに」
 部屋に残っていたあの男がにやけた顔で言う。俺は聞こえないふりをした。
「二人の話だと、三日ほど進んでいけば大きな街があるらしい。そこでまた情報収集だな」
 適当に頷く。
「……お前さんが良いと思った場所を選んでいいんだぞ」
 あいつはそう言った。あくまで一緒に行動していることを、自分に思い出させるように。あの淡い青色の車を、いつでも降りられるということを俺に言う。俺に言っているが、あいつはあいつ自身に言っている。
 狐野郎、と俺はあいつを見下ろす。あいつに出された飲み物をぐいと飲んでやった。苦い。なんでこんなものを美味そうに飲むのか。舌打ちを一つして、それから寝床に戻った。床には子供たちと描いた絵が残っていた。俺が最初に描いた絵の上に、小さい人間が跨っている絵が書き足されている。どちらかが描いたのだろう。
 俺はこの生き物の名前を知らない。ただ、こいつが存在していることを知っている。この生き物にまつわる話も、語ることは出来ずとも、俺の頭の中にある。名前を知りたいのか? あいつが聞いてきそうなことだ。大した意味はないとわかっている。
 けれど、俺に名前を付けたのはあんただろうが。