空からゆっくりと土を押しつぶすような灰色の雲が満ちていた。
細く、さらさらと降る雨は半刻ほど前に上がり、湿ったにおいはまだあたりに充満していた。その村はその雨のように静まりかえっていて、人の気配がまるでない。小さな村ではあるが木造の建物がぽつぽつと通り沿いにあり、出入り口らしきアーチに掲げられていた「ようこそ」という文字も雨に濡れて塗料が僅かに流れてしまっている。
旅人はアーチの前に立っていた。雨用の外套を羽織っていたが、フードを上げると大きく息を吐いた。若い青年で、背中が大きく膨らんでいるのは、外套の下に大きな薬籠を背負っているからだ。艶やかな黒髪についた水滴を払うように首を軽く振り、アーチの看板をしげしげと眺めてから肩をすくめた。
濡れた土の上を延々と歩き続けていて、疲労は溜まっていた。屋根があって乾いた床の上で休めるのならばそれでいいか、と己に言い聞かせて重たい足をまた一歩と進める。道の真ん中に間隔を空けて煉瓦が敷いてあったが、ほとんどが泥を被ってしまっていて、却って滑りそうになりながら旅人は建物の一つ一つを眺めていく。この辺りは戦闘地から遠かったはずだ。そのせいか、建物も傷ついた様子はあまりなく、また最近建てたものでもなさそうだ。窓からうっすらと光が漏れている家があり、旅人は扉をノックする。ややあってからわずかに扉を開けて、ずいっと顔を寄せてきたのは老婆だった。褪せた赤色のほっかむりを被った、どこにでもいるような農村の老婆にも見えたが、ぎょろりと見開いた目の下の隈がやけに目立ち、口をだらりと開いている。背は丸まっていて、旅人の顔を覗き込んでいた。
「突然すみません」
旅人の青年は丁寧な口調で挨拶をした。老婆は見開いた大きな目をぱちくりとさせたまま、何も言わない。旅人は口元に柔らかい笑みを保ったまま、ゆっくりと話すように心がけた。
「僕は旅の者です。どこか泊まれる場所を探しています」
老婆はかすかに震えながら、細い指で道の先を示した。
「ジービィ」
開いたままの口から出た言葉はがさがさと嗄れていて、旅人は片眉を上げる。
「ジービィ?」
繰り返すと、老婆はゆっくりと頷いてから勢いよく扉を閉めた。ばたん、と音が響き青年の前髪がふわりと揺れる。青年は疲労感と共に息を吐き出した。この先にいる「ジービィ」という者の家を訪ねよ、ということだろうか。扉に背中を向けた瞬間、室内から大声が響いた。先程の老婆の声だろうが、何を言っているのかが聞き取れない。別な言葉かもしれないが、青年が知る限りでは意味のない言葉の羅列だ。
「大丈夫かなぁ」
間延びした独り言をこぼしながら、通りを進む。一軒一軒通り過ぎる度に、「ジービィ」という文字を探してみるが、その人物がいる家も見当たらなければ、宿屋の看板もなく、人の集まっているような気配もない。いつの間にか通りの終わりが見えていた。先程と同じようなアーチが飾ってあり、その向こう側には柵で囲まれた畑が広がっている。旅人は踵を返し、近くにあった家の扉をノックした。出てきたのは、大柄で顎に髭をたくわえた男だった。薄い袖なしの上着に作業着のズボンを履いていたが、顔はすっかり赤く、目は焦点が合っていないようにも見える。旅人は引き返そうかと身構えたが、じとりと男は彼を見ると、彼の背中越しの家を指さした。
「よそもんは、あっちの、家」
それだけ言うと旅人の返事も待たずに、足を引きずるようにして奥に引っ込んでいく。まるで、それだけ言うように決められた仕掛けのように。開け放たれたままの扉からは薄暗い室内がわずかに視界に入る。玄関には食べかけの食事が皿ごとひっくり返っていて、カーペットにはシミができていた。旅人は小さく礼を言ってその扉を閉めたものの、少し甘ったるくてツンと鼻をつくような、それでもって吐き気が込み上げてくるような悪臭がまだ漂っていた。
気を取り直して、旅人は男が示していた方を見る。あかりはついていないが、確かに通りを挟んで奥まった場所にぽつんと家が建っていた。これでだめだったら、もう諦めようと旅人はノックをした。はい、と小さい声と共に出てきたのは若い女だった。エプロンをつけ、三つ編みのおさげをした、どことなく幼さも残る彼女は旅人を見るなり少し驚いた表情ではあったものの、「旅の方ですね」と、すんなりと室内に通した。
何も聞かれないことに戸惑いを覚えた青年は、家の前をちらりと改めて見渡す。どこにも「宿屋」であることも「ジービィ」であることも示されていない。
「ここは、民宿なんですか?」
「いえ、生憎このような農村では、そういったものはありません。ただ、なんとなく、村でそういうことに決まったんです」
入ってすぐにリビングルームがあった。左手には狭い階段が伸びている。部屋の中心にある大きな一枚板を使ったテーブルの上には、明るい花柄のクロスがかけられている。椅子は四脚に一人掛けのソファが片隅に一つ。右手には暖炉があるが、火は付いていない。リビングの奥がキッチンになっていて、そこだけ吊るした小さなあかりがあった。
「すみません、キッチンで仕事をしていると、どうもこっちのあかりを付けるのが億劫で。外、寒かったでしょう?」
若い女主人はきびきびとリビングにあかりを付け、その火を暖炉に投げ込んだ。ようやくオレンジの光を見て、青年はどこかほっとした気分になる。
「歩くには少し厳しかったですね」
「えぇ、そうでしょう。この時期はどうしても、そうなんです。お好きなところに掛けてください。コーヒー持ってきますね」
「お世話になります」
旅人は暖炉の近くの椅子の前に立つ。外套をようやく脱ぐと、背中を押し上げていた大きな薬籠が姿を表す。高さは一メートルほどの赤みのかかったケヤキに、黒鉄の留め具と装飾が施された箱をゆっくりと両肩から下ろし、ぐるりと首を回した。脱いだ外套はその薬籠の上に畳んで置き、椅子に腰掛ける。
「随分と大荷物なんですね」
コーヒーカップを持って戻ってきた主人は目を丸くして薬籠を見る。
「えぇ。行商を兼ねてあちこち歩いているものですから」
礼を言いながらカップを受け取り、コーヒーを啜る。内側であたたかい液体が通る感じがすると、自分の体が思っていたよりも冷えていたことに気付く。
「それで、一晩置いていただきたいのですが、お代は……?」
「決めた額はありませんの。それに、物でも構わないとお伝えしているんです。こんな農村ですから。随分前には、古くなった馬具なんかを置いていった方がいましたけれど、そういうもののほうが、私たちにとっては貴重だったりします」
女主人はにこりとして言った。青年も微笑んで、薬籠の上に手を置く。
「それなら、支払いは問題なさそうで安心しました」
「では、夕食をお持ちしますね。あまり豪勢なものは出せないのですが、豆のスープと、パンと、果物がいくつかお出しできます」
「十分ですよ」
女主人は再びにこりとして、軽い足取りでキッチンに戻っていく。旅人は席に着いたまま、自身の名前を告げる。
「僕はシュンランと言います。あなたは、ジービィさん、ですよね?」
キッチンから彼女は答えた。
「いえ、私はヘラウィです」
家の奥には小さいながらも浴室があり、小さな民宿の主人ヘラウィは食事が終わった頃合いを見計らって湯を用意して、シュンランを案内した。彼は重たい荷物を浴室のすぐそばまで持って来て、扉の前に置いた。それを不思議そうに見ていた女主人に、彼は苦笑を浮かべる。
「癖なんです。荷物が近くにないと落ち着かなくて。どうか、気を悪くさせてしまったら謝ります」
「いえ、旅をしている人には、それが唯一のものですものね。お着替え、よければお使いください。洗濯物は預かりましょうか?」
彼女は朗らかに言うと、タオルと部屋着らしき一式を浴室前の籠の中に入れる。
「自分でやるので」
青年は少し気恥ずかしそうに首をすくめた。彼女にとってはそれも単なる仕事のうちなのだろう、ヘラウィはふふ、と目を細めてからキッチンの方へと戻っていった。一人になると彼は薬籠の扉を開けて、使いかけの石鹸を一つ出した。脱いだ服もまとめて片手に浴室に入る。まだ湯気の上る浴槽に体を沈めて、大きく息を吐き出した。
彼女はとても親切だ。素朴な家ではあるが、あたたかみもある。けれど、何か違和感がある。彼女、というよりはこの村そのものに何か違和感がある。
「ジービィ……」
頭の中で何度か復唱する。僕が何か聞き間違えたのだろうか。いや、そもそも引っかかっているのは、あの老婆、それとひどく酔っ払った男に、あまりにも静まりかえった村の空気のせいだ。
「朝になったら出よう」
誰かに言うように、彼は呟いた。
浴室から出ると、リビングのテーブルが端に寄せられて、代わりにマットレスと毛布が何枚も重ねて置いてあった。
「すみません、二階は私の部屋しかなくて、お客さんにはいつもこうしてもらっているんです」
「暖炉が近くて助かります」
にこやかに旅人はマットレスに腰掛ける。古びているが、眠るには十分すぎるほどだ。
「私は部屋に上がりますから、どうぞおやすみください。キッチンに、お茶を入れたポットをおきましたから、よければ」
「何から何まで、ありがとうございます」
「ゆっくりしていってください」
女主人は一礼してから階段を上がっていく。シュンランはあかりを消して、暖炉の火を頼りに薬籠から地図や本を取り出して広げる。次の街までの道順を確認し、ペンで書き込んでいく。問題がないことを確認してからは、小さな本を読み始める。褪せた緑のカバーの本には、植物のスケッチとその説明が細かに添えられ、行間には手書きで足された書き込みがあった。
「次の街までには、少し補充しておいた方がいいかな……」
薬籠に頭を寄り掛からせながら、彼は独り言を呟く。鍵を開けたままの薬籠の扉をもう一度開ける。いくつもの小さな引き出しが並び、開けると薬草やビンが入っている。その数を数えては閉め、また確認する。
「手荒れに効く塗り薬と、風邪薬か、鎮痛剤とかでいいかな……」
薬籠に向かって彼は一人呟いた。あくびを一つし、眠ろうと決めて出したものを手際良くしまっていく。一番表の両開きの扉を閉めて、「おやすみ」と薬籠を撫でた。
叫び声を聞いたのは、マットレスの上に横たわってすぐのことだった。弾かれたように彼は起き上がり、声のした方を見上げる。二階だ。だが、ヘラウィの声ではない。男の声だ。
「ああああううううううううああああああああ」
唸り声にも聞こえるが、痛みでのたうち回っているように聞こえる。シュンランはそっと階段のすぐ下まで行き、「ヘラウィさん?」と呼びかけた。返事はない。
「大丈夫ですか?」
小さく彼女の声が返って来たような気もしたが、また叫び声でかき消された。
「あれがジービィかな」
シュンランは冷静に言うと、薬籠を背負って二階へと上がった。部屋は二つあり、叫び声のする方を開ける。ベッドとわずかな家具だけの部屋で、そのベッドの上で男が身を捩っている。すぐ傍らで跪き、必死で手を取っていたヘラウィがはっと顔を上げた。
「勝手に入ってすみません」
先にシュンランは言ってから、男の方を見る。薄暗い照明の中で見えた顔は、目が血走り口の端からは泡を吹いている。痩せ細っていて、髪も白髪が混じってしまっている。老人のようだが、実際はそれよりうんと若いようにも見える。
「いだああああいいだいよおおおおおお」
男は泣きながら叫んでいる。シュンランはベッドの横に立ち、落ちかけている毛布を男の足元に置いた。どこか大きく怪我をしている様子は見られない。強いて言うならば、自ら作ったような引っ掻き傷が、あちこちに作られているくらいか。
「痛み止めが、切れたんです」
ようやくヘラウィが口を開けた。先程のにこやかな表情は消え失せ、別人のようだった。絶望し、途方に暮れた少女の表情だった。ただ必死に男の手を掴んでいる。男はその手を振り払おうように腕を振るが、彼女は両手でどうにか押さえる。
「痛み止め?」
「痛み止めを飲めば、おさまるんです。でも、もう薬が切れて……」
「でも傷は……」
シュンランは言いかけて、はっとした。
「薬? もしかして、村の人は……」
彼女は口をつぐんだ。答えは自分で知るしかない、とシュンランは焦る気持ちを抑えながら一度外に出た。村の出口の方で見かけた青青とした畑の方に行き、その葉を見る。あかりはないが、月明かりで十分だった。嫌な予感は的中し、彼は小走りで民宿の二階に戻った。
「あの畑で取れたものを使った薬ですか?」
息を切らしながら早口で尋ねた彼に、ヘラウィは涙目で何度も頷いた。苦い顔でシュンランは前髪を掻き上げる。そうしている間にも、男は痛みを訴えて今にもベッドから転げ落ちそうだ。
「もしかして、あなたの持っているお薬の中に……」
「洗面器を持って来てください、あと、お水も」
問いかけには答えず、シュンランは淡々と告げる。彼女は手を離すのを躊躇ったが、おずおずと立ち上がると階段を急いで駆け降りた。
「一か八か」
深呼吸をして薬籠を置くと、扉を開けた。箱の上に小瓶と麻布の袋を置き、上半身がベッドからだらんと落ちてしまった男を引き上げる。
「あつい、あつい、あつい」
速い呼吸で男は胸元を引っ掻く。その手を引き剥がそうとしたものの、力は強くてなかなか動かない。ぐっと歯を食いしばり、シュンランは男の両脇を掴んで体を起こさせる。上半身を壁に押さえつけたところで、洗面器の中に水差しとコップを入れたヘラウィが部屋に入った。
「押さえていてください」
彼女が男の両肩を押さえるのを代わり、その間にシュンランは小瓶を開けた。男の膝の上に洗面器を置き、小瓶の中身を男の口の中に流し込んだ。吐き出そうとするのを止めるように口を手で塞ぎ、少し顎を上げる。喉が動いたのを確認した瞬間、手を離した。すると、すぐさま男はその場で背中を丸めて洗面器へと嘔吐した。酸っぱいにおいと、いやに甘ったるいにおいが混ざり合っている。通りの向かいの家で嗅いだ、あの吐き気のこみあげてくる臭いとよく似ていた。
「結論から言うと、あの草は毒です」
ヘラウィが何かを言う前に、今度は麻布の袋を開ける。小さな丸薬を一つ取り出して、男に飲ませる。だが、男は激しく抵抗して、今度は吐瀉物と一緒に吐き出してしまった。
「飲んで!」
シュンランは言葉を強めて、もう一度薬を袋から出して飲ませた。喉元が薬を通すと、男は悲鳴を上げた。汗が吹き出し、ぎょろりとした目でシュンランを見る。
「殺される、殺される」
「解毒剤です、さぁ、飲んで!」
「いやだあ、薬を、薬を、くれ、いやだ、いたい、いたい」
「おねがいジービィ、飲んで!」
嵐の中で彼を探しているようにヘラウィが叫んだ。ジービィと呼ばれた男は、ヘラウィを突き飛ばした。彼女はきゃっと短い悲鳴をあげて尻餅をつく。男はシュンランを睨み、口からだらだらと唾液を流す。次の狙いは彼だと言いたげに片腕を上げる。シュンランはその腕を掴んで捻り上げた。押さえ込む手に力が入って震えるものの、もう一方の手で丸薬を男の喉にねじ込む。
「飲んで」
鋭く冷たい言葉に男は一瞬動きを止めた。また吐き出しそうにしていたものの、わずかな唾液を膝に落としただけだった。そしてがっくりと気を失った。ヘラウィはその場に座り込んだままだったが、彼女は呆然としながらもゆっくりと立ち上がると洗面器を持った。
「片付けてきます」
残ったシュンランは、気を失った男を横にさせた。広げた薬たちを片付けていると、ふと壁にかかっていた上着が目に入った。脱いだままろくに手入れもされていない状態の、軍服のジャケットだった。
リビングに降りると、キッチンにはあかりがついていた。ヘラウィはカップを二つ持ってきた。疲れ切った顔をしていたものの、どうにか笑みを作り上げて一つをシュンランに差し出した。
「はちみつ入りのお茶です」
「ありがとうございます」
彼は薬籠を下ろしてから受け取り、マットレスの上であぐらをかいた。彼女は一瞬迷っていたが、部屋の隅にあったソファに腰掛けた。
「すみません、おやすみのところをお邪魔してしまって」
「いえ、それより……聞いてもいいですか?」
彼女が思っていた以上に冷静なことに驚きながら、シュンランは慎重に尋ねる。彼女は目線を下げながらも頷いた。
「畑の植物、薬の原料のことですね。あの畑の草は……最近育て始めたんです。この村の地主は、普段は別な場所に住んでいるんですけれど……その人たちがあの植物を育てるようにって。その前までは、じゃがいもとか、とうもろこし、それからトマトとかズッキーニとか、たくさん野菜を育てていたんです。でも、それらも全部やめにしろって。もう戦争は終わった、ここで食料を作らなくても問題ない、代わりにこれを育てろって。……戦争が始まる前から、畑の作るものは何も変わっていないはずなのに」
彼女は流れるように語り始める。シュンランは最低限の相槌に止め、時折はちみつ入りのお茶を飲んで耳を傾けた。
「あの草は薬になると言われました。戦争で苦しんだ人たちを癒す薬だって。地主たちは、草の収穫時期になるとやってきて、それで作られた薬を少しと、お金をたくさん置いていきました。これまで育てていた野菜の何倍ものお金でした。みんな、それで喜んでいました。おばあさんは息子さんが亡くなって、見舞金だけでは心許なかったし、兵役から負傷して帰って来た人は前ほど仕事が出来なくなって不安だったんです」
彼女はため息をついた。
「ジービィ……兄も兵役から帰って来ました。その時は骨折をしていたんです。左腕でした。帰ってきてくれただけでもとても嬉しかった。けれど、あの薬を飲んでからはもう兄の姿はありません。あの薬を痛み止めとして飲み始めたときは、まるで骨なんて折れていなかったみたいに働いていました。今思えば……何か興奮していて。故郷に戻って来たのがそんなに嬉しいんだって、私、呑気だったんです」
彼女の声が震える。シュンランはそっと言った。
「薬の効果が切れると、今度は激しい痛みや幻覚に苛まれる。その痛みをどうにかしたくて、また薬を飲む。薬が原因だとわかっていても、楽にさせるためには薬を飲ませるしかない状況になっていた、ですね。あなただけではなく、この村の多くの人が」
息を押し殺すようにしながら、ヘラウィは何度も頷く。静かに目からぽろりと一粒の涙がこぼれ落ちた。
「兄は生きて帰ってくれたのに……これじゃ、戦場で……」
言いかけた言葉を、それ以上は口に出来なかったのだろう。急に部屋がしんと静まり返り、暖炉で薪が燃える音だけが聞こえる。シュンランはカップに視線を落とす。ほんのりと甘いはちみつの味を飲み込んで、炎に向かって言った。
「生きているだけでも、望みはありますよ」
彼は穏やかな表情だった。
「僕の兄は、帰って来ませんでした」
「……ごめんなさい、私」
青ざめた表情で謝罪する彼女に、シュンランは明るく「謝らないでください」と告げる。
「でももし僕の兄が、あなたのお兄さんのようになってしまったら、きっと僕も心折れているだろうなっていうのは、想像がつくんです。優しくて、大好きだったあの時の兄はもういないんじゃないかって。だから、余計なお節介をしてしまいました」
「あなたも、お兄さんを尊敬していたんですね」
ヘラウィの表情が和らぎ、シュンランはえぇ、と微笑んだ。
「誰にでも優しくて、親切で。僕のことを自慢の弟だって、よく周りに言ってくれました。子供のときは恥ずかしかったんですけれど、今となって思い出すのは……そういうときの兄の姿なんです」
シュンランは炎を眺めながらそう話した。橙色の揺れる光が彼の横顔を照らし、ヘラウィはその横顔を見ていた。彼の表情には悲しみの色は浮かんでおらず、純粋に昔を懐かしんでいる様子だった。それが却って、彼女の胸に何かが押し寄せてくる。言葉には表すこともできず、両手でカップを包む。
「すみません、こんな話して。お兄さんの様子、ちょっと見て来ますね」
すっかり静かになった部屋で、思い出したかのように彼はカップを傍に置き、再び薬籠をよいしょと小さい掛け声と共に背負って二階に向かおうとする。ヘラウィも続こうとしたが、大丈夫と手で制して、水差しを持って階段を上がる。
ベッドに横たわっていたジービィは静かに眠っていた。窓から差し込む微かな月の明かりに照らされた顔は先ほどよりも白く、今にも呼吸が止まってしまいそうだった。まだ働き盛りの年齢のはずだというのに、顔には皺と隈が深く刻まれている。
彼はその病人をじっと見下ろした。もし、これが自分の兄だったら? 目を背けてしまうかもしれない。自分よりも小さくなってしまった姿を、何を話しているのかもわからなくなってしまった姿を想像してしまう。
「でも、生きてる」
言い聞かせるように彼は呟く。呼吸は安定している。それだけ確認すると彼はすぐに階下に戻る。疲れ切っているのか、ヘラウィはソファにすっぽりと収まったままうつらうつらと船を漕いでいた。カップが手から落ちないように、そっとそれを取るとキッチンの片隅に置いた。壁には写真がピンで差してあった。ヘラウィと若い男だ。田舎の好青年を絵に描いたような、がっしりとした体格に日に焼けた肌。短く揃えた茶色の髪に、妹と同じ色の目はにっこりと浮かべた笑顔で細められている。これが、戦場に行く前の彼女の兄の、本来の姿。
朝、毛布の下で凝り固まった体を伸ばしてヘラウィが目を覚ましたときには、旅人は着替えを済ませ、貸していた衣服を畳んでマットレスの上に置いていた。
「すみません、お客さんがいるっていうのに」
彼女は慌てて椅子から立ち上がり、キッチンでお湯を沸かす。
「いえ、こちらこそ起こさずすみません」
「朝食はどうされますか?」
「いえ、もう出ますので。お世話になりました」
「それじゃあ、お菓子でも。この間作ったものがありますから」
ヘラウィは慌てながら、先日作ったばかりの焼き菓子を紙に包む。
「ありがとうございます」
旅人は菓子を大事そうに受け取ってから、もう片方の手で持っていた小さい袋を彼女に差し出した。
「昨日、お兄さんに飲ませた薬の一式です。手持ちにあるのがこれで全部ですが、作るのは簡単です。近くに医者がいれば、処方してくれるはずです。メモも中に入れてあります。一日に三回飲ませてください。元の飲んでいた薬の方を求めると思いますが、絶対に飲ませないで。毒が抜け切れば、すこしずつ回復するはずです。……宿代、これで足りますかね?」
彼女は涙を堪えて何度も頷き、小さな袋を両手で受け取った。
旅人は見送りを断り、表の通りに出た。雨は上がっていて、雲の隙間から柔らかい朝日が差し込んでいる。昨晩走って見に行った畑を横切ると、青くつやつやとした葉はそこにいることはさも当然のように佇んでいる。じわじわと蝕んでいく毒たちだ。一見整っているようにも見えるが、雨で濡れた土の上は足跡がいくつも重なっていて、葉のいくつかを引きちぎったような形跡まで見える。誰かが引き抜いていったのだろう。あの老婆かもしれない。もしくは、あの酒を飲んでいた男かもしれない。もしくは、この村の誰かか。痛みから解放されたくて、必死に摘み取ったのだろう。
「残酷なことを言ったのかな」
旅人は呟く。必ず快復するとは言い切れなかった。ジービィは薬の効果が切れれば痛みに悶え苦しむようになるし、ヘラウィはもっと闘わなければならない。それが決して良い道とは限らない。それならばいっそ、と一度は過った考えがまだ浮かんでくるかもしれない。
「でも、希望は必要だと思うんだよ。体が動かなくって、話せなくなって、まずい薬を飲まなくちゃいけなかったとしても……生きているってだけで、なにもかも違って見えるよ」
語りかけるようにシュンランは言う。
「わかってるよ。ぜんぶ、僕が願ったことだから」
終