美しい花々と瑞々しいベリーが実るのを心待ちにしていたアドアナフィールドも、今となっては塹壕によって緑は剥げ、人々の踏み荒らして出来た泥に覆われていた。戦役が終わったにも関わらず、まだここは時が止まったままのようだ。坂の上からその様子がよく見える。つま先で土を掘れば、時折薬莢がころりと顔を覗かせる。–––花が落とした種の代わりに。
ここで、数千人もの軍勢がぶつかり、人々の血に濡れたのだ。
ユリはその様子を、首をゆっくりと動かしながら眺めていた。旅をするには軽装にも見える、赤いキモノを羽織代わりに、黒のシャツとズボンをはいていた。ベルトには黒い鞘に収まったカタナと、古いピストルを無造作に差していて、左手はカタナの上に置いたまま、ゆっくりと坂を降りて行った。先日降った雨のせいか、泥は少しぬかるんでいる。この戦場跡地を抜けた先には街があり、ユリはそこを目指していた。
時折、左右へと視線をやるが、見渡す限り、小さなくぼみが至る所に作られた、泥の平野が広がっているままだった。坂を下りきると、再び緩やかな登り坂となっていて、その上に街並みの影が見えた。坂の途中にもあったが、街の手前には、花の散った桜の木がぽつぽつと伸びている。左手の方を見ると、崩れたバラックの跡や、ぼろぼろになった布がそのままに捨てられていた。復興部隊があれらに手をつけるのも、当面後のことだろう。
とはいえ、それでもこの戦地も、他と比べれば元の姿に戻ろうとする力は幾分も強いように思われた。これまでもいくつかの戦場となった街や森を通ってきたが、銃弾と呪いによって、二度と人も動物も暮らせなくなるような場所も少なくはなかった。
街の姿が近づいてくると、右手に一本の桜が思っていたよりも近くにあったことがわかった。青々とした葉が繁り、時折風に煽られて落ちていくのを、ユリは目で追った。ポピーやスイセンは踏み荒らされ、根もまともに残らなかったが、樹はこうして堂々と立っていた。それは己の傷をものともせずに毅然とした戦士のようでもあり、人間の愚かな行為を哀れむ貴族のような佇まいでもあった。
葉が落ちた方を目で追うと、幹の後ろに銃が落ちていた。軍から支給されるライフル銃だ。足は自然と銃の方に向き、ぐるりと樹の後ろへと回る。すると、ぐったりと紺色の軍服が横たわっていた。上着に埋まるように、骨の一部が露出していた。軍服の腹部には、黒くなった血の跡が残り、右手の骨はその部分を押さえているようだった。軍服の前に立ち止まり、覗き込むようにしてから、軍服の襟元を見た。一番階級の低いバッチが付けられており、内ポケットには小さな紙が差し込まれている。指先で紙を抜き取ると、折り畳まれた紙には写真が挟まっていた。
鮮やかな桜色を咲かせた木の下に、寝そべるようにして並んでいる若い男女の姿だ。男が自分の頭を支えているその腕に、女が自分の頭を乗せ、二人ともあどけない笑みを向けている。男は農作業で着る、汚れたシャツに擦り切れたズボンをサスペンダーで吊るし、女は水色のエプロンワンピースを着ていた。
アドアナフィールドから一番近い街では、周辺の復興のために編成された軍が頻繁に滞在している。その日も、これからアドアナに向かうのであろうトラックが二、三台、車借の店の前に泊まっていた。大きな一本道の両脇に、それぞれ店が立ち並び、その背後にぽつぽつと民家などが建っていた。ユリは看板をそれぞれ見上げながら、通りを淡々と進んでいった。食堂が併設されている宿のポーチでは、赤ら顔の小柄な男がその旅人の姿をまじまじと見つめた。
「アドアナフィールドを通って来ただろう?」
男は大声で言った。「俺はあそこで、気味の悪い”まじない師”を十三人殺してやったんだ!」
自慢げに語る男を横目で一瞥すると、男は持っていたビール瓶を掲げた。何日も洗っていなさそうな、擦れたグレーのジャケットの胸ポケットには不釣り合いな飾りがぶら下がっていた。アドアナフィールドに展開していた呪術師集団が身につけていたと噂されている、金の輪に赤と黒の糸を編み合わせた飾りだった。
「これは”まじない師”が持っていたんだが、これからもらう勲章の代わりなんだ」
男は誰に言うわけでもなく、通りゆく人々に自慢していたものの、住民たちもちらりと視線を向けるだけで、関わりたくなさそうにそそくさと通り過ぎて行った。男はちっと舌打ちをしたが、ビールをぐいと飲むと、べろりと唇を舐めた。
「どいつもこいつも腑抜けたやつらばかりだ」男はにやにやしていた。「人を殺したってだけで、びびっちまうんだ」
男はふと視線を向けて来たのだが、ユリは関心を示さなかった。男はもう一度つまらなさそうな顔を浮かべた。その口からは安酒とヤニの臭いが立ち込めていた。
「よそものめ」
ユリは手紙の看板を掲げた建物に入った。三つ開かれたカウンターは埋まっていて、待っている者もあった。復興隊としてやってきた軍人が、作業服を着て落ち着きがなさそうに順番を待ち、その後ろに並んだ。
カウンターが並んでいる隣には、机が別に二つ出ていて、事務員と利用者が向かい合って座っていた。「食料は昨日届きました……ありがとうございました。それから……」と、利用者は考えながらたどたどしく話し、向かいに座っていた事務員が頷きながらペンを走らせていた。代筆業もやっているのだろう。
前にいた復興作業員が呼び出されると、その青年は表情を明るくさせてカウンターに向かった。そのすぐ後に一番右にあったカウンターが空き、事務員がどうぞと促した。黒いジャケットを着た、四十代ほどの男が「こんにちは」と言うと、少し驚いたようにユリをまじまじと見た。
「旅の方ですか」
ユリは頷いた。
「街には通っていく人も多いんです。ウェードの街に向かう途中になりますから。手紙の受け取りでしょうか? それとも配達を?」
ユリは懐に手を入れ、二つに折ったくせのついた封筒をカウンターの上に置いた。事務員は、ははぁ、と頷いた。そして、この旅人の顔をもう一度見てから、もう一度理解したと言わんばかりに首を動かした。おそらく、故郷にでも送るのだろう。自治領の者ならば、言葉はわかっているものの、ほとんど話せないのはよくあることだ。だが、事務員は受け取った手紙の宛先を見て、おや、と再び首を傾げた。
「はて、こりゃ向こうの村宛てですな?」
「復興隊に伝えてくれないか」
向かいに立っていたその客は、静かに言った。言葉が通じていないと思っていたからか、事務員は驚いて目を上げた。
「桜の下に、骨があった。自分たちの兵士だろうから、ちゃんと拾って弔うようにと」
「じゃあ、これはその? そういうことでしたら、お代はいただきませんよ。私の方から、来ている復興隊の者に伝えておきます」
事務員は感心した様子で言った。そして、折れたあとのついた封筒をまじまじと眺め、
「これの中身は読んだんですかい?」
と尋ねた。いや、と旅人は首を横に振った。
「俺はここいらの字は読めないんだ」
ユリは立ち去ろうとして、ふと思い出して振り返った。
「呪術師を殺したと言っている元軍人がいるな?」
「あぁ、ゴールドマンの旦那ですね。ウェードからうちまで復興隊の案内をしている人なんです。見かけたならわかりますけれど、まぁ、ああいう風にさせてしまうんでしょうかねぇ、戦争ってのは。ずいぶんと横柄な感じになってしまいましたよ」
「アドアナフィールドでロンウェンの呪術師が出撃したのは八人だ。五人もどうやって多く殺したんだか」
事務員は目を丸くした。
「もしかして、あなたも元軍人さんですか?」
「ああいうのはいくらでも見て来たがな。まともに取り合わない方が身のためだ」
旅人は呆れた表情を浮かべた。後ろに並んでいた若い女がそわそわしていたのに気付き、それじゃあと言って郵便局を出た。
旅人はそのまま街を出た。あの酔っ払いの男が自慢げに話をしているのを、これ以上耳に入れたくなかったからだ。車借の建物の前では、復興隊のトラックが止まったままだったが、その他に古い自動車が三台ほど停まっていた。
「さっきの旅の人、死体が持っていた手紙を持って来たんでしょう?」
郵便局では、後ろに並んでいた女が興味ありげに事務員に尋ねていた。
「なんて書いてあるのかしら?」
「それはやっちゃいけない約束ですからな」
「気にならないの? 宛先は?」
「あんまり詮索するもんじゃないよ。それで、御用事は?」
事務員がそう言うと、女はむっとして小包をカウンターの上に置いた。事務員はいつもの調子で受け取りの控えを彼女に渡した。
少しばかり対応を終えたところで、事務員はさて、と息をついたのだが、奥から別の事務員が例の手紙を持って困ったように言った。
「この宛先のご婦人なんだが、もしかしたら届かないかもしれん」
「そりゃまたどうして」
「新聞を読んでないのかい? ここに書いてある村、半年も前に強盗に襲われたんだ。村にはほとんど人が残っちゃいないらしいぞ」
手紙を受け取った事務員はぽかんとしたのだが、顎髭を撫でて「そうか」と茫然と呟いた。
「でも、届くかもしれない」
「あぁ、一応届けるけれど……念のためだ。送り主は? 伝えなくていいのか?」
「桜の下とのことだ」
事務員はそう言うと、なんだかどっと力が抜けた気がした。ちょっと外に出てくると同僚に告げると、郵便局を出て、通りにいた復興部隊の服を着た男に声をかけた。平野にまだ死体が残っていると言っている人がいたと伝えると、復興部隊のその男は事務的な返事をした。酔っ払いのゴールドマンが宿のポーチで誰かに絡んでいるのが聞こえて、今日ばかりはなんだか無性に腹が立った。あの旅人が言ったことをそのまま言ってやろうかと思ったが、彼は虚しく夕暮れを眺め、そのまま郵便局へと引き返した。
※2020年10月、テキレボEX2 Webアンソロ「手紙」にて掲載した内容を一部編集して掲載